私はフリーで生きてきたので、他の人と比べれば嫌われる勇気を持って生きてこられたと思います。
それができたのは、会社員という組織にいなかったから。
こんな私でしたが、嫌われる勇気をなかなか持てなかったのがママ友の世界でした。
自分の気持ちに従ったら、本音はやりたくないことばかり。
でもやらないと子供が仲間はずれにされるのでは?
自分はいいけれど、子供が仲間はずれにされるのは耐えられない。
そう思って、奥さんにママ友と仲良くするように強要しました。
奥さんは、ママ友には嫌われる勇気を持つ人だったのです。
今日の記事は、ママ友のとのおつきあいや、夫にママとの世界理解されずに苦しいお母さんに向けて、心の冷えとりになるような私の体験をお伝えしていきたいと思います。
好き嫌いもフィフティー フィフティー
わたしは、かなり自由に生きています。
正直、この20年間、「嫌われる勇気」を実践してきたと思っています。
その結果、自分自身の「嫌われ度」を分析した結果、”どっちでもいい”を抜きにして、好きか嫌いかで分けたら、
わたしのことを嫌いな人55パーセント、好きな人45パーセントだと分析しています。
なぜ、そのような数字になるのか?
まず、わたしは、自分に「嫌われる勇気」がなかった頃から、
「人間誰しも好きな人の分だけ嫌いな人がいる」
と、思っていました。
好きな人、嫌いな人の名前を挙げていくと、大体半分ずつ。好きな芸能人、嫌いな芸能人を挙げていくと、大体半分ずつです。
もっと正確に言えば、大好きな芸能人が5人だとしたら、大嫌いな芸能人は5人。残りの90人はどうでもいい人です。別に嫌いじゃないから好きと言えば好きなのかもしれないけれど、正直どうでもいい。
人間関係もこれと全く同じだと思うのです。
”いい人、いい人、どうでもいい人”
と、いう言葉があるように、
「あの人、とてもいい人なんだけどね〜。付き合うにはちょっと…」
「うん。彼はとても素敵だと思う。でも、わたしとは合わない」
「仕事に関しては、先輩のことはとても尊敬しています。でも、プライベートでも付き合うとなるとちょっと…、厳しいかな」
一見、相手に好意を抱いているのかな?褒めているのかな?と、思わせる言い回しですが、好きですか?嫌いですか?どっちですか?と、聞かれれば、結局は、こういう人は、どっちでもいい人、どうでもいい人なんですよね。
それはそれで、自分に関わる人間関係を円滑にするためには、このような関係を維持し続けることは、とても大切だと思います。
特に会社やママ友といった、抜け出したくても抜け出せない世界においては。
ただ、自分がそのような態度を取っているのと同じだけ、人からもそのような態度を取られているのだということを知っておけば、それだけでもかなり気持ちが楽になるのではないでしょうか。
だいたい、ドラマでもバラエテイでも名脇役と呼ばれる立場の方がおられると思いますが、その方達のことを好きか?嫌いか?と、聞かれたら、たいていの人は「好き」と答えます。
でも、その人が主役のドラマや映画。その人がMCを務めるバラエティ番組を観るか?と、聞かれたら、ほとんどの人が、「観ない」と、答えるのではないですか?
自分の殻を抜け出したくても抜け出せない人。会社で、いまいち、上司や同僚の目を気にして実力が発揮できないと思っている人。
「だったら自分は名脇役でいいや」
そう思ってはいませんか?
最初から名脇役を目指しても、絶対に名脇役にはなれません。
名脇役は、主役を目指して不断の努力を重ねたからこそ、名脇役という地位に就くことができたのです。
最初から名脇役を目指していたら、誰からもとっくに忘れ去られていたでしょう。
いい人はいい人だけど、どうでもいい人なのです。
それが会社では、
主役を目指さない社員は、必要とされない社員です。
会社は、名脇役など、求めてはいないのですから。
出る杭は打たれる
才能があればあるほど、その分だけ人から賞賛されますが、嫉妬もされる。出世すればするほど、賞賛され嫉妬される。
芸能人は有名になればなるほど、人気は出るけれど、その分嫌いだという人が増え、ちょっとしたきっかけで、ものすごいバッシングを受けます。
目立てば目立つほど、その人は光り輝いて見えるかもしれないけれど、同じだけ、粗や影の部分も見えてしまうものです。
だから、「好きな芸能人ランキング」で上位に選ばれる方は、「嫌いな芸能人ランキング」でも必ず上位に入っていますよね。
「嫌いな芸能人ランキング」で上位に選ばれる方は、誰もが認める人気芸能人です。
常に世の中、フィフティー、フィフティーなのです。
「嫌われたくない」「好かれたい」
と、いくら願っても、いくら、そうならないように振舞っても、嫌う人間はいくらでもいる。
わたしは、フリーになって、20数年間、普通のサラリーマンの方々に比べれば、ものすごく自由に生きてこられたと思います。
わたしはフリーです。もし、わたしが、
「フリーの世界では名脇役でいいや」
そう思って活動していたら、誰も、わたしには仕事を頼んではくれません。当然、わたしより能力のある人に仕事を依頼しますよね。そうなると、わたしの存在なんて簡単に忘れられてしまいます。
「わたしだったら、他のどのライターよりも優れた仕事をします。取材力もある。インタビューをさせたらピカイチですよ。原稿ですか?早さには自信があります。良いものを書く自信はありますよ」
常に自分が主役であることをアピールしなければ、食べてはいけないのです。
でも、そう言い続けていると、
「あいつ、実力もないくせによくそんなこと平気で言うな〜。ただの嘘つきじゃん」
知らないところで嘘つきにされるし、本当に実力を伴っていても、
「調子に乗ってるよな〜、あいつ。どこかで一回、この業界の常識をわからせないとつけあがるぞ」
知らないところで、嫌う人が増えていきます。
事実、他部署から移動してきた、一度も口を聞いたこともない若い社員編集者から、開口一番、
「風さんて、ものすごく評判悪いですよ。ずいぶん嫌われていますよね」
そう言われたこともあります。
そんな時、わたしはこう思うだけです。
(ああ、彼はずっと、こういうコミュニーケションで初対面のフリーを自分のコントロール下に置こうとしてきたのか)
事実、私を嫌っている人から、あることないこと聞いたのでしょう。じゃあなぜ、その人は、私に会ったこともない人にわざわざそういうことを言うのでしょうね?
わたしは彼に言いました。
「そんなに俺のことが怖いんだ?」
「別に怖がってはいないと思いますよ」
「じゃあ、自信がないのかな?」
「は?どういうことですか?」
「俺が仕事ができすぎるから、そいつも君も怖いんじゃないの?そいつは、そうやって俺と編集者の仲を裂こうとしているんだよね。君も自分と仕事を初めてする人を評判だけで評価する人なんだね。それとも、あれかな?そういうことを言うのは、ギャラのピンハネとか、人を落としてめようとしたことを俺に指摘された人なのかな?君も共犯なの?誰?教えて?言った人」
「風さんって、本当に大した自信家ですね」
「自信家じゃないよ。真実を確かめているだけだよ。一番、正しいのは誰か。君も俺と仕事をしたらすぐにわかると思うよ」
他を蹴散らすようなことはしませんが(若い時にはしてましたね。でもそれが食べていくということです)、
「この世界、嫌われてなんぼだ!」
それくらい、尖っていたことは確かです。
それだけ好き勝手に自由に生きてきたのに、わたしのことを好きだと言ってくれる人が、45パーセントもいる。
それだけでも、ものすごい幸せなことなのです。
スネイプもいい人だったしね。
絆の悪用
「絆」とか「仲間」とか、「同志」とか、本来、日本人にとって、美徳とされる人間関係を表す言葉です。
でも、わたしは、社会に出てからというもの、それらの関係性がものすごく苦手になりました。
だから、極力、そういう関係を避けて生きてきました。
その関係はものすごく素敵だし、そういう仲間をたくさん持っている人を本当に羨ましいと思います。
しかし、わたしには、それができない。
一旦、そのカテゴリーの中に入ってしまうと、出て行く人を否定する。非難する。そういう村八分的な空気が必ず存在する世界があるからです。
例えば、わたしがサラリーマンを辞めるときに、快く送り出してくださった方ばかりではなかったように。
「お前みたいな能力がない奴がサラリーマンでも食べていけないのに、フリーでやっていけるわけがないだろう?」
「会社が一番大変だって時に、お前は仲間を平気で裏切るんだな。そんな奴はどこへ行っても裏切り続けるんだよ。気がつくと、お前はどこに行っても一人ぽっちだよ。後悔しても遅いぞ」
「もう二度と連絡してくるなよ。困ったときだけ、人を利用しようなんて思うな。お前は裏切り者なんだから」
その2年後には、わたしを罵倒した先輩上司の大半が会社を辞めていました。
もちろん、仕事仲間の中にも、何人か一生を共にできる友はできました。
でも、大半の”仕事仲間”は、そんなものです。
そんな”仲間”を主張する同僚や上司の言葉を真に受けるだけ、損をします。
子供を人質にするママ友の世界
こういう村八分的な絆や仲間意識で特に顕著なのが、ママ友の世界ではないでしょうか。
例えばこういう話、よく聞きませんか?
インフルエンザの予防接種の季節になると、
「もう予防接種した?」
「うちはまだ」
「うちはもう全員やったよ」
「ホント?もうやらないとやばいかな〜?」
「うん。早くやったほうがいいよ」
そういう会話で盛り上がります。
でも、その中のお母さんの一人は、心密かにみんなに秘密にしていることがあります。
それは、予防接種をしないということ。でも、
「もう予防接種した?」
そう聞かれたお母さんは、嘘をつくのが苦手です。それに、
「予防接種なんて本当はやらないほうが子供のためにはいいはずだ」
そういう信念があるので、ついつい、本当のことを言ってしまいました。
「予防接種しても結局、インフルになる子はなるし、あえてウィルスを体の中に取り入れるのもどうかと思う。だから、うちの子にはやらせたくないの」
その言葉を聞いた瞬間に、他のお母さんたちは全く同じ反応をしました。
「えっ?…」
一瞬の沈黙。そして、
「それってダメじゃない?」
「じゃあなに? もしインフルにかかったらどうするの? 子供が一番苦しむじゃない。予防接種をしてもかかってしまったとしたって、少しでも軽くなるなら、やっておいたほうがいいんじゃないの?それに周りの子供にうつっても構わないってこと?そういうことだよね〜」
「え?去年もやってなかったの?ウソ〜!信じられな〜い!」
「そういう系の人だったの?」
「え?何かの宗教てこと?」
「そういうの、すごくイヤなんだけどー!」
「絶対に予防接種受けなきゃダメだよ。だって社会のルールでしょう?」
「自分の価値観だか、宗教観だか知らないけど、自分の勝手な判断で子供を危険な目に合わせているってこと、わかってる?」
「私たちの言うことが聞けないの?友達の子供に感染させてもなんとも思わないんだ?信じられない」
最近は、予防接種の賛否が医療界でも議論になり、ニュースなどでも取り上げられるようになりましたから、
「うちは予防接種しないよ」
そう言っても、上記のようなことを寄ってたかって言う人は少なくなったように思います。
しかし、上記のようなパターンにかかわらず、
多数派の意見に従わなければ、たった一つだけの異論に対しても許されないという空気がママ友グループの中にはあります。
そんな中にあっても、自分を貫き通せるのか?それとも、子供が次のステージに行くまでの我慢と、辛抱するのか?
毎日毎日、幼稚園の送り迎えで、決まって同じカフェでランチ、お茶をする10人くらいの規模のママ友のグループがいます。
毎日毎日、週5日。ランチ一回1,500円かかるので、週に7,500円。ひと月で大体30,000円。
結構な出費です。
この中の二人のママ友は密かにグループを抜けたいと思っていました。理由は家計に響くからです。比較的、裕福な家庭の子息が通う幼稚園ですから、ほとんどのママたちはこれくらいの出費は気になりません。送り迎えの服装は大体黒い服装でと決められているので、ママたちは皆さん同じようなスタイルです。過度な宝飾品を身につけることも禁止されています。
でも、この二人のママは、最初から彼女たちの日々の生活レベルの違いを会話の内容で見せつけられていたので、気後れしていました。
しかし、それでも、
「お受験の情報交換のため」
「幼稚園内での子供の立場を少しでもよくするために」
「ゴールデンウィークのバーベキュー大会、夏休みの花火鑑賞会に参観するために」
「子供のために…」
「自分さえ我慢すればいいんだ」
そう思っていました。
夫に、
「辛い…」
そう相談しても、
「でも、子供のために付き合いは必要だろ?俺だって行きたくない飲み会に行って、付き合いたくないゴルフに行ってるんだよ。それくらい我慢しろよ」
我慢が当たり前だと言われた。
(我慢できないわたしはダメな母親なの?でも、辛い。やめたい…。やめて、子供が幼稚園にいる間に、この3万円で前からやりたかった習い事をしたい。それって本当にわがままなの?)
この分かれ道で、
「どっちに進めばいいのか、全くわからない」
悩んでおられるお母さんが本当に本当にたくさんおられます。
自分はいくら嫌われてもいい。でも、子供のこととなると…。
かつて、このママ友との付き合い方に対しては、「私は、長いものに巻かれた方がいい」派でした。
「あれ?ずっと嫌われる勇気を実践してきたんじゃないの?」
そう思われた方もおいででしょう。奥さんの茜さんからも何度も同じことを言われました。
わたしは、いくら嫌われてもいい。正直、公園デビューも苦手だし。そもそもパパだし、ママ友なんかいらないし。友達でもない人たちと、子供の親ってだけで、「友達じゃん」って呼び合うことほど面倒なことはないし。仲良くする必要性がないのなら、全然、仲良くしたいなんて思ってないし。
でも、
「仲良くしないと、みんなでバーベキューとか、みんなで動物園とか、ちょっとしたお花見とか、そういうの、子供が行けなくなったらどうすんの?」
「そういう時だけ、参加すればいいんじゃないの?」
「そういう時だけ?普段、仲良くしてないのに?そういう時だけシレ〜ッと。『今日はよろしくお願いしま〜す』なんて?茜さんも参加するの?」
「い〜や。わたしは参加しない」
「わたしだけ?」
「そう」
「それは無理だって。やっぱりママでしょう。普段付き合いなくて、いきなりパパはないでしょう」
「そうかな〜。誰もそんなの気にしてないと思うけど」
「気にしてないのは茜さんだけで、ママたちは気にするでしょう?『あの家、なに?ちょっと変だよね』って。『音ちゃんの両親、ちょっと変わってるね』って」
「だって、変わってるんだから仕方ないじゃん」
「そうだけど〜。そうだけど、音のためにも最初は普通に目立たないようにした方が良くない?」
「最初だから、きちんと、うちはそういう付き合いはしませんということをはっきり示した方がいいんだよ。大人しくしてたら、必ず、仕切りたがりの人や、傍若無人の人がいて、有無も言わさず役員にさせらたり、勝手に父母会のお金を徴収されたり、イベントに参加することになってたり、◯◯さんちのグループに入らされたりするんだから」
「だよね〜。そういうことになるよね〜。だから、長いものには巻かれた方がいいんだよ」
「わたしはイヤ。いくら音ちゃんのためとはいえ、意味のないことはやらない。本当にそれが音ちゃんのためになるならやるけど、子供は関係ないもん。親が勝手にやってるだけだもん。やりたい人がやればいい。わたしにはそんな暇はない」
そうなのです。
ママ友のグループ分けや、イベントは、子供には全く関係ないのです。
わたしが幼いころ通った幼稚園は、カトリック系の私立幼稚園で、地元では結構いいところのお坊ちゃん、お嬢ちゃんの通う幼稚園でした。
しかし、母は幼稚園のママたちとは誰一人としてお付き合いをしていませんでした。あの頃にも、「ママ友」的な付き合いはあったのでしょうか?母曰く、
「あったあった。旦那の仕事の話やったり、ご近所がどうのこうのって、くだらん話ばっかりよ。アホらしくて付き合うてられんかったよ」
「じゃあ、みんなで集まってどっか行くとか、そういう誘いもあった?」
「あったよ。休みのたんびにあったよ」
「俺、そういうの行ったことないよね」
「ないよ。あたし、そういうの好かんもんね〜。お父さんは仕事で忙しいし」
「そういうの、行ってみたかったな〜」
「でも、あんた全然覚えてないやろも。そんなことでいじめられたりせんかったやろも。子供は全然関係ないもん。あんなん親が集まって酒飲みたいだけよ」
「昔も今も一緒か〜」
「そうそう。何も変わらん。女の集まりはいつの時代も一緒。いじわるする奴は必ず居る。嫌われたくなくても勝手に嫌う奴はおる。いちいちそういうの相手にするだけ損。付き合わんのが一番」
そんな親に育てられ、ママ友を一切作らない母を持ったのに、わたしはいじめられたこともなければ、そういう会に参加できずに悲しんだという記憶もない。
ママ友と子供は、全く関係ないということを体験で知っているのはずなのに、わたしは、
「音のためにもママ友とは仲良くしないとダメだよ。じゃないと、音が仲間外れにされるし、いじめられる」
そう思い込んでいたのです。
そうです。
これも、単なる思い込みなのです。
続きは、風宏の「心の冷えとり」コーチング11夫婦で考え方が違うママ友問題をご覧くださいませ。
(執筆者:心の冷えとりコーチ 風宏)
心の冷えとりコーチングについてはこちらもご覧くださいませ。
風 宏(Kaze Hiroshi)
心の冷えとりコーチ
冷えとり歴13年目。靴下6枚ばき、半身浴20分。最近お酒がやめられるように変化した2015年2月4日より、女性のための問題を解決するブログを開始。2016年9月GCS認定プロフェショナルコーチ資格取得。女性のための心の冷えとりコーチング講座も開催。