皆様、あけましておめでとうございます。
本年もどうぞよろしくお願います。
皆様のこの1年が、冷えとりとともに、穏やかで、心健やかに、楽しく日々が綴られて参りますことを心から願っております。
今日の記事は、私の子供時代に過ごした田舎の冬の出来事と、都会に出てきてからの冬を比較し、冷えとりを始めたことで私の体が本来あるべき姿に戻りつつあることを振り返るものです。
そう振り返ることができるようになれたのも、冷えとりを始めたことが大きかったように思います。
とても寒かった山奥の私の田舎の冬
さて、
お正月といえば、寒いですよね〜。
今年はたまたま暖かいですけど、東京は、毎年、お正月は寒いですよ。人がいなくなるから。道もガラガラ。だから、お正月の東京がわたしは大好き。
わたしの中に根強く残っているお正月のイメージがこの”寒い”です。
わたしは、年末年始を大学受験浪人の1年間を除けば、結婚する前年の24歳まで、父の田舎である大分県日田市の奥深い山の中で過ごしておりました。
子供の頃の夏休みも、だいたい一ヶ月間はここで過ごしました。
景勝地で知られる耶馬渓や湯布院温泉の近く。
この辺りの地形には盆地が多いため、夏はとても暑く冬はとても寒い。夏なんて今でこそ最高気温記録都市といえば埼玉県熊谷市(でも、これはヒートアイランド現象によるもの)ですが、当時は、毎年、ここ大分県日田市でした。1日の寒暖差が大きいので、夏はクソ暑く、冬になれば、雪は降らずとも明け方には道路が必ず凍結するほど冷え込む地域です。
つまり家の中も寒い。
家は古い農家なので、アホみたいに広い。今の言い方で10DK。プラス土間に納屋に牛小屋、鶏小屋。目の前には鰻がニョロニョロ泳ぐ川。後ろはイノシシが走り回る大きな山。
イメージでしてください。水墨画に出てくる、険しい山間に小さな茅葺屋根の家がポツポツ。あんなところです。
家の中も隙間風ピープー当たり前。
それは、暖房が炭コタツに石油ストーブ。お風呂は薪なので、煙や一酸化炭素が充満しないように、部屋を仕切る扉が全て格子状になっています。全部の戸を閉めきってもきちんと風が通り抜ける作りになっているからです。
だから、コタツに入って下半身がいくら暖かくても寒い。ストーブのすぐそばにいないとほとんど意味ない。どちらも酸素を必要とするので、火を入れるとバンバン隙間風が入ってくる。
てか、そもそも子供はコタツに入れない。ストーブにあたれない。
なぜか?
父は8人兄弟で、その親戚が一同に会すので家の中はものすごいことになります。祖父母合わせて大人18名。子供は一番多い時には、19名。総勢37名。
父の実家のある集落は古くは壇ノ浦の戦いで滅亡した平家とともに都落ちした一門が開いた村で、20軒近くある農家はどこも古く、どの家も同じ姓を名乗っておりました。つまり、どの家の表札も同じ姓なのです。親戚でもなんでもないんですけどね。
わたしの祖母は琵琶を弾きながら『平家物語」を語る語り部として知られていました。祖母の代まで、その地域の人々は皆、代々親から教え込まれていたらしいのです。
そんな家でしたから、古い慣習がしっかり息づいていました。
家の中で一番偉いのは、もちろんおじいちゃん。次がおばあちゃん。その次が長男のおじさんでその次が父。父には姉が二人いますが、父の方が家の中では偉い。
食事は祖父母とおじさん、父、父の弟のおじさんが先に手をつけてから。それから大人の女性たち。
子供たちは同じ卓にはつけません。食事にも大人と子供にはちゃんと差がつけられていて、例えば、大人がハンバーグだったら子供はハムを焼いたものをハンバーグだと言われて食べてました。
天ぷらでは、大人にはエビやイカが入っていても、子供には入ってない。サツマイモやミョウガ、しいたけばかり。
食後、大人たちがデザートにケーキを食べていても子供たちにはありません。あってもみかんとかりんごとか柿とか。
一つしかないコタツには大人の男たちが独占するので女子、子供は入れない。
だから、寝る直前まで寒さを紛らわすため家の中を走り回って遊ぶしかないんです。
父の身内からお年玉をもらったことはありません。
それが当たり前でした。
寝床も子供たちだけで狭い部屋に押し込まれて煎餅布団でほとんど雑魚寝。お互いの体をくっつけて体温の暖かさを利用して寝る。
古い農家のため、トイレは外の離れた場所にある。一旦家の外に出て用を足さなくてはなりませんでした。
それが子供にはむちゃくちゃ怖い。しかも寒い。眠気が一気に覚めてしまいます。体も冷え切ってしまいます。
冬の夜中です。しかも外。真っ暗。本当の暗闇。トイレの中はポットン便所(排泄物はそのまま肥料となるので、一番田んぼに近い場所にあるのです)。トイレに行きたくなっても怖くて行けない。でも、大人は誰もついてきてくれない。
ちなみに、昔の大人は本当に子供に甘くなかったのです。膀胱炎になろうが漏らそうが、ついてきてくれません。
その代わり、漏らしても怒られない。言われることは、
「早く寝て、早く起きろ!そしたら寝小便なんかせん!」
これだけ。
朝は、日の出とともに起こされて、畑仕事を手伝わされます。
山に登って、しいたけを取り、畑を荒らすイノシシを獲るために仕掛けたワナを見に行き、イノシシがかかっていたら蔓で縛って重たいイノシシを引きずって持って帰る。その日の夕食はぼたん鍋。
父と一緒に川に行き、鰻を手づかみで取り、30匹くらい捕まえて、一週間ずっと鰻ばかりなんて日々もあります。
鶏肉を食べる時は、飼育している鶏を直前にしめてさばく。それは必ずおばあちゃんの役目で、私が来ている時は必ず私が助手でした。
山から流れ出てくる清水を堰き止めて3つの小さな池にした共同洗い場のような場所があって、食べ物を洗う場所や洗濯物を洗う場所がきちんと仕分けされていました。
そこでおばあちゃんがさばいて、取り出した内臓を私が一つ一つ洗うのです。そして、肝臓や砂肝やちょうちん(卵の黄身と身がくっついた部分)のことを、
「コレなんね?」「どうやって食べたら美味しいん?」
わたしはそう聞きながら美味しい鶏肉料理ができるのを楽しみにしてました。
毎朝、生みたての卵を取りに行くのも私でした。
牛小屋には牛がいます。牛のウンチは大事な肥料です。わたしは、いつも無表情な牛がウンチをする瞬間だけ、ちょっと情けない顔になるのを見るのが大好きだったので、牛がウンチを出す時間になると、ずっと目の前に座って待っていました。そして、それをすくってバケツに入れます。これが、お米や野菜の大事な栄養になる。そう教えられているので、臭いとか、汚いとか思わないのです。
お米、野菜、鶏肉、卵、鰻、果物はほとんど自給自足でした。
果物は、唯一の甘いものです。
冬はみかん。夏はスイカ。秋は柿です。それらも全て食べたい分は自分で収穫に行く。
だから、何を食べても美味しい。料理の味付けなんてお酒と醤油、砂糖で煮るしかないのに、美味しい。
ちなみにこの当時、テレビはありましたが、映る局はNHKと民放2局のみ。家でできるゲームはトランプのみ。一番近い駄菓子屋は5キロ先。本屋はバスに1時間以上乗って街に出ないとありません。
それなのに、楽しい。退屈なんてことは全くありません。
ここでの暮らしは都会での暮らしと違い、自然が相手。太古から日本人が育んできた自然との共生ですから、退屈している暇がないのです。
夏は暑い。そして、冬は寒いはずなんだけど、わたしは、この場所で24年間、全く風邪をひいたことはありませんでした。
ただ、2度だけ、ものすごい腹痛を起こし、高熱を出したことがあります。そこには、明らかな共通点がありました。
少しの寒さも許せない!便利さを追求するようになった都会の冬
一回目は夏休み。三週間ほど過ごしたある日、8人兄弟で1番若いおばさんが帰省した時、車を買ったので子供たちを街へ連れて行ってくれることになりました。
確か5人くらいで出かけ、唯一あるデパートで食事をし、ソフトクリームを食べて戻りました。その晩、子供たちは全員激しい下痢をして、わたしは高熱にうなされることに。
もう一回は、お正月。
おじさんが、その直前に旅行で北海道に行ったということで、大量のタラバガニを買ってきていたのです。それをお正月にみんなに振る舞ってくれました。
わたしは生エビのアレルギーなので、しっかり焼いた大きな脚を2、3本食べました。カニを生まれて初めて食べたわけではありません。ボイルしたカニはそれまでも何度か食べたことはありました。
その夜から、激しい腹痛と嘔吐を繰り返し、高熱にうなされ、往診に来ていただいた医者に点滴を打ってもらい、それを一週間続けてようやく回復するという状態でした。この時、他の子供達大人たちは大丈夫だったので、食あたりではなかったと思います。
わたしは、冷えとりを始める以前から、よくこの時のことを、思い出していました。この二つの腹痛が本当に辛かったからです。
決して身体の強い子供ではなかったので、よく風邪を引くし、よく腹痛を起こす子供でした。
でも、この二つの痛みや苦痛は全然質が違ったのです。
今思えばですが、”全身がくしゃみをするような痛み”
一言で表現すれば、そういうことでした。
つまり、喉や鼻の奥の違和感をくしゃみで一気に外に排泄しようとする感じです。
胃の中に入ってきた異物をなんとか外に出そうと全身がショック状態を引き起こしているのです。
先日、テレビを観ていたら、俳優の榎木孝明さんが出ておられました。一ヶ月の断食の後、油断してトンカツを食べてしまったら、ものすごい腹痛に襲われたと。
それを聞いて、ピーンときたのです。
「そうか。子供の頃のあの腹痛はそういうことだったのか?」
と。
私の体は、父の田舎で暮らしている間、自然界に自然にあるものを、極力、味付けし過ぎない状態でいただいていました。
そこにある日、突然、本来そこにはないものを胃袋に入れたことで、本能が拒絶反応を起こしたのです。
でも、カニもソフトクリームも、父の田舎にいない時。つまり、普段の生活では普通に食べることができていました。
身体はむしろ、カニやソフトクリームの方に慣れているはずなのに、どうしてこのようなことが起きてしまったのでしょう?
これは、わたしの想像ですが、
人間の身体は常に、本来ある自然の状態に戻ろうとしている。
と、いうことなのではないでしょうか。
わたしの子供の頃、インスタントラーメンや化学調味料、ポテチに代表される新しいスナック菓子の数々。ファミレスやコンビニの出現、ほかほか弁当の出現などで、新しい食文化が次から次へと出てきた時代でした。
「新しいものは良いのだ」
「便利が一番良いのだ」
それが正しいと思いこまされた時代でした。
でも、それが本当に身体に良かったのか?と、問われれば、おそらく良くはなかったでしょう。
でも、新しい食文化の流入から逃れることはできません。
そのうち、ものすごいスピードで、自然界に自然にできたものだけで3食を満たすということは不可能になりました。
私たちの身体は今、子ども時代にはなかったもので作られていると言っても過言ではありません。
でも本能は、わたしたちの細胞は、何千年と繰り返されてきた本来の姿に戻ろう戻ろうとしていたはずです。しかし、その記憶も薄れ、戻ろうとすることさえ忘れ、そのうち、戻る力さえ失われていきました。
気がつくと、夏は当たり前のように冷房を効かせた部屋でくつろぎ、冬は暖房を入れて常に顔がポカポカと暖かい状態が当たり前になりました。
最初は、エアコンの冷暖房にものすごく違和感を感じたはずです。顔だけがポカポカと温かくなる状態が気持ち悪いと思っていたはずなんです。
「エアコンを効かせた部屋では眠れない」
誰もが最初はそう言ってました。
だからよく風邪をひいていたし、口の中がカラカラに乾いていた。咳もよく出ました。つまり人工的なものに対する拒絶反応です。
思い出しましたか?
でも、それに慣れてしまうと、エアコンのない場所では暑さに耐えられない。外に出たら異常に寒い。そう感じてしまう。当然、拒絶反応も起こらない。
そのことを、我々は、
「慣れた」
と、表現しますが、実際は、
「麻痺した」「鈍感になった」
のです。
まあ、夏の暑さも冬の寒さも昔とは質が全然違うというのもあります。今の都会の暑さは、普通の暑さに比べてエアコンの室外機から吐き出される温風や、土がアスファルトに覆われて熱気の逃げ場所がなくなっていることによるヒートアイランド現象によるものが大きいので、人間が生理的に耐えられる質のものとは全然違います。
冬もまた同じ。
だから、外は寒い。
「冬なのだから外が寒いのは当たり前だろ!」
そうです。冬だから寒いのは当たり前!
でも、皆さん!
よ〜く思い出してください。
子供の頃のことを。
近頃、温暖化で、冬の気温が上昇しています。特に今年の暖かさは、もう異常と言ってもいいでしょう。
子供の頃より、日本の冬は間違いなく暖かくなっている。
でも、子供の頃の方が、寒くなかったと思いませんか?
どう思います?
子供の頃の方が、大人も子供も、もっと薄着だった気がしませんか?
気温という数字だけで言えば、昔の日本の方が寒かったんです。今の方が断然暖かい。
しかも、今の方が昔に比べ、防寒具は格段に優れています。暖房器具にしても衣服にしても昔とは比べ物になりません。
だから、昔に比べ、今の方が昔に比べて全然薄着でも大丈夫なハズなんです。
でも、昔に比べて、
なんとなく寒くなった気がしませんか?
なんとなく厚着になった気がしませんか?
私たちは、お肉もお魚も昔の人に比べて、比較にならないほどたくさん食べています。血糖値を上げるものを一体どれだけ食べているでしょう?
恐ろしいくらい食べています。
だから、体温だって体感温度だって昔より高くなってないとおかしい。
でも、実際はそうではない。
体感温度はかなり低くなっている。
体温だって、昔の人は36.5度以上が当たり前だったそうです。それに比べ、現代の人は36度前後だそうです。
だから、地球は温暖化し、身に付ける防寒具の性能も良くなっているにもかかわらず、人間の体温はどんどん下がり、どんどん寒がりになっていってる。
これって、どう考えてもおかしいと思いますよね。
やっぱり、どこか間違っている。
この間違った状態を、そのまま諦めるのではなくて、なんとか、強制的に正しい方向へ持っていこうという行いが、冷えとりなのではないでしょうか?
靴下で足を暖め、半身浴をするだけで、なぜそうなるのか、そのメカニズムについてはよくわかりませんが、
わたしは冷えとりをするようになって、日本のお正月とか、お盆とか、日本の食材、和食。そういう古くから先人たちが伝えてきたことの大切さをものすごく実感するようになりました。
私は、勝手にそう思っています。
冷えとりを始めて出てきためんげん!足爪の異常、足指の止まらない痒み、出血
身体中にできた湿疹は、わたしに関してはいがいと早く良くなりました。
しかし、左足の親指の爪はみるみる退化し、左足指の痒みだけはこの5年間、一度も治ったことはありません。暇さえあれば出血しています。
最近では、右足にも広がり、右足の指も痒くなってきました。
三ヶ月前から頰の内側の粘膜はただれています。これも、3つの病院に行きました。慶応大学病院で切開して皮膚を採取して細胞診まで受けましたが、それでも原因はわかりません。
半年ほど前から、股間が痒くなり、これがもう始末が悪い。掻かないと本当に耐えれられないくらい痒い。それが、お尻の方にまで広がってもう大変。
明らかに、危ない皮膚病のような状態です。
もちろん、皮膚科には参りました。でも、診断は、
「ただのかぶれ」
です。ステロイド剤を処方されただけ。
一度だけ塗ってみました。翌朝には患部はキレイにもとに戻っている。
「薬こわ〜』
でも、痒いんです。掻いたらステロイド剤を塗った部分は全然痒くない。でも、その奥、皮膚の内部がとても痒いんです。
でも、その皮膚の奥のかゆさは、皮膚表面のステロイド剤にブロックされて外に出られない。
感覚ですが、そんな感じがするのです。それが、ものすごく気持ち悪い。
「この痒みを外に出してあげたい」
そういう変な感覚になるのです。
冷えとりをするまでは、
「痒みを外に出す」
と、いう感覚なんて全くありませんでした。
でも、そういう感覚なんです。
今は、その感覚が正しいのだと思っています。
子供の頃、本来持っていた正しい感覚を取り戻すための禁断症状と戦っている。
それが、今のわたしの状態なのだと自分に納得させているのです。
冷えとりをやろうかやるまいか、このまま続けるべきか続けないべきか、悩んでおられる方はたくさんいらっしゃるでしょう。
わたしもその一人です。
「こんな状態が一体いつまで続くんだ?」
茜さんにそう聞くと、
「毒を身体に入れている限りは延々と続くんだよ」
そう答えます。
「じゃあ毒をいれるなってこと?」
「それができれば一番いいけど、お酒やお肉やお菓子をやめるのは無理でしょう?」
「無理無理」
「だったら、延々と続くんだよ」
「じゃあ一体何のために冷えとりをやっているのだ?」
「毒を出すためだよ」
「じゃあ、何で毒を出すのだ?」
「体の中に大量に毒がたまって、大きな病気にならないようにするためだよ。脳梗塞やガンや、糖尿病。私たちはもうそういう年齢なんだよ。そうならないために冷えとりをやって小出しに毒だしをやって、健康体でいられるようにしているんだよ」
「じゃあ、お股は永遠に痒いのかい?」
「その通り!」
「ゲえええええええ〜!!!」
そして、私は今日も、人目を気にして股を掻く。
悪しからず。
今年もよろしくお願い申し上げます。
(執筆者:心の冷えとりコーチ 風宏)
心の冷えとりコーチングはこちらもご覧くださいませ。
風 宏(Kaze Hiroshi)
心の冷えとりコーチ
冷えとり歴13年目。靴下6枚ばき、半身浴20分。最近お酒がやめられるように変化した2015年2月4日より、女性のための問題を解決するブログを開始。2016年9月GCS認定プロフェショナルコーチ資格取得。女性のための心の冷えとりコーチング講座も開催。