心の冷えをとるコーチング

言葉が全く通じない相手とのコミュニケーション1

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心の通じ合う人間は極めて特別な存在

 

どんなに心を割って話しても、

どんなに真摯に向き合っても、

どんなに必死になって訴えても、

心が全く通じ合わない相手って、

あなたの周りに、

 

ものすご〜〜〜〜く、たくさんたくさん、いますよねー。

 

子供の時のクラスの子、中学、高校、大学。社会人になって同じ会社。

「同じ部署にわずか5人しかいないのに、心が全く通じ合わない相手がなぜかいる・・・」

「いくら懇切丁寧に説明しても全然人の話を聞いてない」

「同じ部署にいるのに、協力し合うという意識が欠如している」

 

 

同じ身内でも、夫婦、親子、兄弟でさえ心を通じあわせるのは難しい。

「親子なのになんで・・・」

「兄弟なのに、どうしてこうも意見が合わないのだろう・・・」

そう感じること多くないですか?

 

そう考えると、実はわたしたちは、

 

心の通じ合わない相手としかコミュニケーションをとってはいないのではないか?

 

そういう疑問に行き着いて愕然としたこと、ありませんか?

 

 

わたし子供の頃からそう感じて生きてきました。

「どうして親父はわかってくれない?」

「なぜ兄貴は俺の見方をしてくれない?」

「お袋は俺の方が正しいとわかっているのに、どうして親父や兄貴の肩を持つ?」

「あいつのこと親友だと思ってたのに、なぜ平気で嘘をつく?」

「なぜ面と向かって言ってくれない?なぜ影で悪口ばかり言う?」

どうして?なんで?なんで?なんで?・・・・・・・・・・・・・

 

いくら考えてもわからないものはわかりません。

 

だからと言って、人が嫌いなわけではありません。

だからこそ、人が大好きです。

だって、人は複雑です。

人間関係は難しい。

たった一人の相手のことをいくら考えてもわからないことばかりです。

だから、悩みは尽きない。

だから、

死ぬまで日々これ、”コミュニケーションの学び”というわけなのです。

 

 

日々の会話というのは、ほとんど

心が通じ合ってないことの方が多い。

ほとんどの会話は、お互いの空間を行ったり来たりしているだけで、心に届く言葉はたま〜にあるか、ないか。

むしろ、それが当たり前。

言い換えれば、だからこそ、

 

心に届く言葉というのが存在する。

心が通いあう瞬間に感動する。

だから、その人と一緒にいたいと思う。

 

そういう存在は、あなたにとって、

 

“特別の存在”

 

と、いうことになります。

 

それ以外の人はというと、

親であろうが、兄弟姉妹であろうが、血の繋がりは全く関係なく、

どうしても通じ合えない相手はいます。

「家族なんだからわかっているはず」

「娘なんだからあの子のことはすべてわかっている」

 

それが一番、危険な思い込みなのです。

 

だからこそ、

心の通いあう相手は特別の存在なのです。

 

 

まず、それが大前提であるということを理解してください。

 

 

心が通じ合ってきた相手でさえ、通じ合わなくなるのが当たり前。そんな時、どうする?

 

 

人間は一人一人全く独立した脳を持っているのだし、その脳ですら、1秒間にものすごいスピードでありとあらゆることを考えています。

全く同じテーマの話をしても、全然違うところにベクトルが向いているなんてことは、むしろ普通だと思った方がいい。

全く興味もなければ聞いてもいないのに、ただただ相槌ばかりが上手くて、心の中で、

「あ〜面倒臭い」

と、思っている相手よりも、

「ね〜!人の話聞いてる!?」

と、ツッコミを入れたくなるようなリアクションの相手の方が、正直でありがたい。

それくらいの心持ちでいた方が、傷つかなくてむしろよい。

 

だから、友達だと思っていた人の中に、

心どころか、会話、言葉そのものが通じない相手がいても何の不思議もありません。

悲しいことですが、そこに目を瞑っていても何も解決にならないので、

わたしはあえて言うのです。

 

わたしたちを取り巻くわたしたちに関わる人たちの多くは、心が通い合ってはいないのです。

 

だからと言って、

言葉や会話、心を通じ合わせることを諦めてしまったら、人間ではいられなくなってしまいます。

 

そこに挑んで、そこを追求していくからこそ、真の友情が芽生え、真の愛情を育むことができるのです。

 

そして、

 

自分の真実に近くづくことができるのです。

 

人と人は、それぞれ全く違うことを考えている。

だから、言葉に対する反応も、”間”も、価値観も、全て違うのです。

でも、人は、一人では生きいけません。

誰かと一緒にいたい。

その誰かと一緒にいたいから心を通い合わせたいと願う。

 

 

わたしと奥さんは25年間、一緒に住んでいます。交際期間を合わせるともう29年間です。

もちろん、心を通い合わせたからこその結果です。

今思えば、ただの勘違いだったのかもしれないけれど、お互いに、

「心を通い合わせたい」

そう希望し、努力し、

「この人とだったら心を通い合わせることができる」

そう信じたからこそ、結婚というスタートラインに立てたのです。

全くの他人に比べれば、何を考えているかはわかることが多い。そこは間違いないと思います。

 

だからと言って、

相手のことをわかった気でいるのは、大きな間違いです。

 

全く話が通じないなんてことは日常茶飯事なのですから。

 

わたしと奥さんが一番喧嘩するパターンはこうです。

 

家族の決め事で、わたしの意見に対し、

奥さん「うん。そうだね。そうすれば」

そう言うし、大事な家族の決め事ですら、

奥さん「あなたのやりたいようにやれば」

そう言ってくれます。あまり反対しません。

でも後になってそれが間違いだとわかった時、

奥さん「だからわたしは反対だった」

そう言います。

わたし「あの時、やりたいようにやればと言ったじゃないか!」

わたしがそう言うと、

奥さん「だって反論してもどうせやりたいようにやるじゃん。でもわたしは反対だった」

わたし「今頃になって自分には責任がないようなことを言うのは卑怯だ!」

奥さん「じゃあ、あの時反論していればよかったの?」

わたし「当たり前だよ!」

奥さん「言ってもどうせ聞かないじゃない!」

わたし「言わなきゃわからないじゃないか!」

奥さん「言わなくてもわかるから言わないんでしょう!」

わたし「俺の何がわかるんだ!」

奥さん「わかるよそれくらい!29年間ずっとそうじゃない!」

 

こんなやり取りになってしまいます。

だからと言って、夫婦としてこれがダメなのか?

いいえ。

「これが夫婦だよ」

 

胸を張ってそう答えるでしょう。

 

つまり、人と人は、常に、

微妙な距離を測り、二人の間に漂う空気を感じ、相手との間を計算し、お互いがなるべく真摯に正直に向き合えるように、できれば角が立たず、穏やかな雰囲気のまま会話を続けていたい。

そう感じているのです。

だから、29年も同じことを繰り返していると、このあと、このようなセリフが続くことになります。

 

奥さん「わかるよそれくらい!29年間ずっとそうじゃない!」

わたし「たしかに・・・」

奥さん「でしょ!」

わたし「でもさ〜。それでも言って欲しいんだよ!」

奥さん「何それ?だって結果は同じじゃん。疲れるんだよね。同じこと繰り返してるばかりで」

わたし「だってそれが夫婦じゃん」

奥さん「たしかに・・・」

わたし「言い争いができなくなったら一緒にいる意味ないじゃん。喧嘩って、わかりあえない箇所の確認でもあるんだよね〜」

奥さん「都合のいいように解釈するね」

わたし「都合のいいように解釈できなくなったら終わりだよ」

奥さん「たしかに!じゃあ、謝って」

わたし「それとこれは別だよね!」

奥さん「一緒だよ。謝って!」

わたし「だってお互い様じゃん。なんで謝らなきゃいけないの?」

奥さん「いいから謝って。そうじゃないと終わらないから」

わたし「終わらせたいならそっちが謝りなよ」

奥さん「はあっ!バッカじゃないの」

わたし「バカぁ!?・・・たしかに。俺たち相変わらずバカだね〜」

奥さん「たしかに!」

 

これ、月一ペースで必ず起こります。

その横で、娘は歌を歌いながら算数の問題を解いてます。

 

要は、コミュニケーションってこういうくだらないやりとりの集合体なんですよ。

 

でも、くだらないやりとりですら、諦めてしまったらできなくなります。

 

人と心を通い合わそうとする気持ちを諦めてしまったら、終わってしまうんです。

 

「そんな面倒臭いことをいちいち考えて生きてるんですか?辛くないすか?面倒臭いですよね。正直、うざいです。人に迷惑をかけてなかったら別に良くないですか?自分さえよかったらそれでいいと思うんですけど」

 

同じような話をした時に、わたしより20歳以上若い人に言われた言葉です。

 

「自分さえよかったらそれでいいの?」

「だって、よくありません?別に人に迷惑をかけるわけじゃないんだし」

「でも、結果、迷惑をかけている場合があるって思わない?」

「でも、それは相手が勝手に思っているだけでわたしが迷惑をかけたわけじゃないから関係ないですよね」

「・・・・・でも、自分との会話の中で何が相手の機嫌を損ねたのだろう?とか、考えない?」

「別に・・・。それが自分にとって困る相手だったら考えますけど」

「どういうこと?」

「例えば、家族とか、恋人とか、友達とか。自分に直接深く関わっている人が相手だったら考えますよ。でも、仕事でいちいちそんなことを考えてら疲れますよね。うざいし。面倒臭いです」

「つまり、嫌わたくない相手だけに気を使えばいいと?」

「いけませんか?」

「いけないと俺は思うけど」

「でもそれは風さんの価値観であって」

「まあね。でも、人の価値観だからって関係ないってことにはならないよね」

「もちろんそうですけど。そういうことをいちいち考えて生きていくのが面倒臭いじゃないですか」

「やっぱり面倒臭いんだ」

「面倒臭いでしょう〜」

「でもそこを諦めたら相手のこと何もわからないよ」

「わからないくてもいいんじゃないですか?別に自分にとって大事な人じゃないんだから」

「大事か大事じゃないなんてその時点ではわからなくても、その先には大事な人になるかもしれないわけだよね」

「だから〜、そういうのがいちいち面倒臭いんですよ〜。そもそも諦めるって、何を諦めるんですか?」

「コニュニケーションだよ。コミュニケーションを諦めたら、何も変わらないんだよ」

「風さんがおっしゃりたいことはわかりますけど、でも、そういうのって本当に面倒臭いんですよね」

「人と話すことってのは、すべからく面倒臭いんだよ」

「でしょう?だから避けたいわけですよね。それがいけないんですか?」

「相手のことを思ったら避けては通れないはずなんだよ。面倒臭くてもしっかり向き合うことが大切なんだよ。それはいずれ必ず自分のものとなる」

「・・・・あ〜、面倒臭い」

 

では、

コミュニケーションを諦めるって、どういうことを言うのでしょう?

 

みなさん、気づいておられないかもしれませんが、

今、世の中には、

コミュニケーションを諦めてしまった人がたくさんいます。

 

その結果、どうなってしまったか?

「いくらこっちが真剣に話しても全く言葉が通じない」

そう感じることがものすごく多くなってしまいました。

 

詳しくは、次回にお伝えしたいと思います。