風宏の心の冷えとりコーチング PR

風宏の「成功コミュニケーションを実現する心の冷えとり」コーチング~風宏プロフィール

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みなさま、初めまして。

“心の冷えをとる”ライフコーチの風宏(Kaze Hiroshi)です。

コーチとして、みなさまとパートナーシップを結ぶために、私という人間をお伝えすることがとても大切だと思います。

心の冷えとりって、一体どういうものなの?どうしたらなくなるの?
そんな疑問にお答えしながら、私という人間がどんなふうに心の冷えとりをしてきたかについて書いてみました。

今日の記事は、心の冷えとりコーチ・風宏についてお伝えするものです。

【風宏(Kaze Hiroshi)プロフィール】

1967年福岡県北九州市生まれ

福岡県立八幡高校卒業

明治大学商学部商学科卒業

大手不動産デベロッパーに就職するも会社員という環境に馴染めず1年半で退職。

1991年12月より、報道雑誌専門のフリーのライターへ。1995年の地下鉄サリン事件取材や阪神大震災現地取材を始めとした事件、災害事故取材、スポーツ取材(特にプロ野球選手のインタビュー)、芸能取材を中心に執筆。著名人のインタビュー取材は500名超。現職。

2015年2月よりブログ『レスキュー女子es』開設。

2016年2月末日より、ライフコーチとして『成功コミュニケーションを実現するコーチング』『心の冷えを取るコーチング』をコンセプトにコーチングを始める。

  現在、冷えとり歴9年目。

演劇少年だった風宏は演出家になりたかったが挫折

 

わたしは演劇青年でした。

 

子供の頃、映画、特に50〜60年代のハリウッド映画が大好きで、将来は、映画監督か役者になることを夢見ていました。

 

高校に入って演劇部に入り、役者というよりも演出に興味を持ち、3年間演劇に明け暮れました。

 

高校卒業後は大学には進学せず、博多の劇団に入りたいと思っていました。しかし、親は、それを許してはくれません。大学だけは卒業しろと言います。わたしの父は進学高校の教師でしたので、「高卒」という肩書きを許してはくれませんでした。わたしも、親の反対を押し切って劇団に入るほどの熱意はなく、大学受験を決意します。

「どうせ大学に行くなら、有名な劇団のある大学がいい」

当時は、野田秀樹氏率いる劇団「夢の遊眠社」や鴻上尚史氏の劇団「第三舞台」など、小劇団全盛の時代。ですから、有名な小劇団をたくさん抱える早稲田大学か明治大学に入りたいと考えたのです。学部なんてどこでもよかったのです。ただ、入れれば。そして、演劇ができれば。

 

しかし、現役で合格する学力もなく一浪し、早稲田大学には二つの学部を受けてどちらも不合格。明治大学は4つの学部を受けて、なんとか商学部だけ受かりました。

 

しかし、いざ入学してみると、明治大学には文学部演劇学科というのがある。

「え?演劇って大学で勉強できるの?」

それほど、わたしにとって大学は、演劇サークルがあればなんでもよかったのです。

そして、わたしは、明治大学の映画演劇サークル「騒動舎」に入りました。

 

「さっさと主役を張って、本を書いて、演出して、雑誌やテレビなんかに取材されて、東京ドリームを掴み取ってやるぜ!」

 

本気でそう思ってました。

 

でも、その世界に入ってすぐに気づきました。

「あれ、オレって…、全然才能なかった?」って。

同じ劇団のみんなは、自分よりも才能がある。そんな連中さえも、大東京の中で星のようにある小劇団の売れない役者に過ぎません。そんな彼らの足元にも及ばない自分の無力さをまざまざと見せつけらます。

それでも、演劇は好きなので大学卒業まで続けることは続けましたが、趣味の域を出ることはありませんでした。

結局、当時のわたしの熱意も気力もその程度。

大学には全く行かず、お芝居をやっていない時は、バイトと麻雀、お酒に溺れ、無為に時間を消化することにこそ熱意を抱いていたのではないかと思えるほどの空っぽな4年間でした。

 

「自分は一体何のために東京に出てきたのだろう…」

 

なんとなく就職したのは不動産デベロッパー

 

完全に目標を失ったわたしは、そのままバブル時代に流されるままに大手不動産デベロッパーに就職します。

 

と、いっても、就職活動という活動は何もしませんでした。それでも、どこかの大企業に就職できる自信はあったからです。なんせ、時代はバブル全盛期。完全に売り手市場です。こちらが黙っていても、企業の人事部所属の大学の先輩が、面白い後輩を物色しています。

「果報は寝て待て。幸運は勝手に向こうからやってくる」

完全に意味を履き違えてましたが、よだれ垂らして寝惚けていても、それでもあの時代、果報はやってきました。

その会社に就職できたのも、時代の流れのおかげです。

 

就職情報誌を出している企業RにOB訪問に行くという友人から、

 

「OBが、面白い奴がいたら連れてきてって言ってるんだけど、一緒に行く?」

そう声をかけられて、ついて行ってOBと朝まで一緒に飲んで気に入られ、一週間後には取締役面接があって、その日のうちに内定。

 

内定を頂いてから、その会社が実はRではなくてR系列のデベロッパーだと気付く始末。しかも、「デベロッパー」が何かも分からず、内定をもらった後で、OBに、

「宅建持ってる?」

と、聞かれ、

「宅建って何ですか?えっ、就職情報誌じゃないんですか?」

「お前…、ウソだろ?」

 

これが、わたしの誰もが羨むような大企業に就職した経緯です。それがバブルという時代でした。

 

しかし、ここでもわたしはすぐに落ちこぼれました。

 

明るい性格とノリの良さが買われて、土地買収の精鋭部隊で組織された埼玉県の支店に新人でただ一人だけ配属されたのですが、会社からの期待の大きさが重くわたしの肩にのしかかります。同期が近くに一人もいないという寂しさも相まって、重圧とプレッシャーにすぐに押しつぶされました。

 

給料はすごく良いけれど激務で有名な会社でしたから、体力に自信のある体育会系出身者がものすごく多く、独立志向の強い人間であふれていました。

 

皆、しっかりとしたビジョンを持っていました。しかし、わたしはなんとなくノリで入社して、ノリで一番きつい部署に配属されて、そのパワーにただただ圧倒される毎日。

 

入社一ヶ月後には接待で肝臓を壊し、半年後には、他の部署に移動させられます。

 

入社2年目には、自分の能力に限界を感じ、そのあたりから、一人の先輩の標的となり、いじめに近い仕打ちを受けるようになりました。

 

その先輩は、東大卒のエリートで、能力も高く体力もあり、ことあるごとに私を罵倒し、仕事が終わると毎日、飲みに付き合わされるようになったのです。

 

そして、2件、3件のはしごは当たり前。家に帰れるのは午前3時4時という毎日が続きました。そのうち、疲れで家に帰る気力もなくなり、会社の近くのカプセルホテルに泊まる日が増えていきます。

 

そんな日々が続くと、当然、業務にも支障をきたします。とにかく、眠い。だから、お酒に誘われると、

「すみません。明日は大事な営業があるので今日は帰らせてください」

そうお願いすると、

「お前の仕事は、俺と酒を飲むことなんだよ。お前が昼間起きて仕事したらみんなに迷惑だろ?だから、誰も飲むなって言わないんだよ。お前の仕事は俺と酒を飲むこと。お前はそれだけやってればいいの。お前みたいな無能が仕事したら、みんなの迷惑なんだよ!」

毎回そう言われて、わたし自身も、

(あ~、きっとそうなんだろうな~。俺みたいな無能はここにいるだけで迷惑だろうな~)

そう思い込むようになっていきました。

 

限界ギリギリの日々が続いた結果、わたしは先輩を酔った勢いで殴ってしまいました。

潮時でした。

会社からは何のお咎めもありませんでしたが、それから三ヶ月後には会社を退職することになります。

 

それが、わたしのサラリーマン人生の全てです。

人生の落伍者になって、好きなことってなんだ?と思う日々

 

わたしはこの時、人生の落伍者でした。

 

社会的信用も自信も自尊心も全て失いました。

 

会社員として組織の中で生きていく自信を失い、社会人としての自分の立ち位置がわからなくなりました。

この時、もしコーチングという存在を知っていたら…。わたしの悩みを聞いてくれて、背中を押してくれるコーチというパートナーがいたら、どれだけ救われていたでしょう。

あの時の自分に教えてやりたい!

「コーチに頼め!」

と。

 

「自分は今後、どうやったら生きていけるのだろう?」

「自分が一番、生き生きできたことってなんだったっけ?…」

わたしは、楽しいということを必死で思い出しました。

「お金がなくて毎日自炊していたあの頃。飲食店のバイトで厨房に立っていた学生時代の3年間。そして、夢中になって芝居の脚本を書いていたあの頃。自分には才能がないと気付く前の、ただただ書くことが楽しかったあの時間…」

「そうだ。おれは料理が好きだし、文章を書くのが好きだったよな〜 。創造することが大好きだったんだよ。忘れてた」

そして、あることを思い出しました。

サラリーマン時代に、「不動産バブル」に関する取材に訪れたフリーライターの方を思い出して、思い切って電話をしたのです。

「自分で文章を書いて食べていきたいんです。生きていくためにはどうすればいいですか?」

その方は、わたしのためにある出版社の編集部を紹介してくださり、当面、そこでアルバイトとして、コピーとりや資料集めの仕事を紹介してくれたのです。

またその数日後、再びその方から電話があり、こう言われました。

「ある報道雑誌の記者が足りないんだけど、記者をやって見る気はない?」

 

私は二つ返事で、

「やらせてください」

その一週間後の1991年12月1日。わたしの記者としての人生が始まりました。

 

フリーライターとして出発してわかったのは、アピール材料は結果のみ

 

と、言っても、誰も何も教えてはくれません。ネタの集め方、取材の進め方、原稿の書き方。フリーのわたしには誰も何も教えてはくれないのです。先輩記者は、ライバルです。わたしには上司も部下もいません。誰もわたしのことを叱りません。その代わり、誰も何も教えてくれない。関心さえ持ってくれない。

 

自分に気づいてもらうためには、自分でネタを持ってきて、プランを通して、自分で取材をして原稿を書いて、記事にならないと、食べられるだけのお給料はもらえない。

 

自分の飛び込んだ世界は、実力だけが評価される世界だとすぐに気づかされました。

 

「なんてシンプルでわかりやすい世界!」

 

ただ働いてもダメなのです。きちんと結果を残さなければ、この世界では生きていけない。

 

でも、わたしはここでも運が良かった。

当時はバブルの崩壊直後。世の中の景気はものすごいスピードで坂を転げ落ちていきましたが、出版業界は、大盛況でした。

 

インターネットも携帯もない時代。世の中、不景気になると、情報誌や報道系の雑誌が飛ぶように売れたのです。

 

わたしが自分でネタを探さなくても仕事は山のように入ってきました。だから、本当に記者数が足りなかったのです。

 

芸能ニュースも何かしら記事を書けば本が簡単に売れる時代でした。

 

わたしには考える暇も与えられず、毎日起こる事件に追われるように取材の日々を送りました。

 

阪神大震災当日に神戸に入り、その日から10日間の現地取材。

地下鉄サリン事件直後の、築地本願寺駅構内の風景。

指名手配中の殺人犯の単独インタビュー。

重大事件の被害者家族の親族のふりをして取材拒否の葬儀に参列し、家に上がりこんでのインタビュー。

発覚前の重大殺人事件の遺棄死体を告発したいと申し出た共犯者と一緒に捜索したこと。

人気アイドルの二人が海外旅行に行ったと聞き、現地に飛んで、ホテルに片っ端から電話をかけて探し当て、そこからの張り込み。

違法ドラッグの売人の取材をして、逆に写真を撮られて、「あなたの写真を組織にばらまくよ。記事にすると命の保証は持てないよ」と、脅迫され、危うく拉致監禁されかけたこと。

ある政治家の批判記事を掲載し、支援者から呼び出され、記事の差し止めを求められ、日本刀を抜かれて脅迫されたこと。

今では考えられませんが、それくらいやらないとスクープ記事を書くことはできませんでした。人と同じことをしていたのでは、生き残っていけない。

だらだら生きていた自分に対する戒めでもあり、償いでもあったのだと思います。

人間、落ちるのは簡単です。何もしなければいいんですから。

でも、人並みに生きようと思えば、やっぱり、どこかでモードを切り替えなくてはなりません。

特に、わたしの場合は....

 

現在まで、インタビューさせていただいた著名人は約500名以上。プロスポーツ選手、俳優、女優、企業経営者の方々など華やかな世界で活躍されておられる方の哲学や人生観をたくさん学ばせていただきました。

もちろん華やかな人生を送っておられる方ばかりではありません。事件の被害者となられた数々の女性たち。その家族。レイプ被害に遭われた多くの女性のインタビュー取材もさせていただきました。

 

そういったありとあらゆる立場の方々の人生を取材させていただいているうちに、私の中に、一つの疑問が沸き起こってきたのです。

 

ライター取材で分かった女性に冷たい社会に新たな疑問

 

どうして、世の中は、こうも女性ばかりに冷たくて、不公平なんだ?

どうして、人間って助け合わないんだ?

どうして、こんなにもたくさんの女性が、「生きづらい」って思わなくちゃいけないんだ?

 

ちなみに、わたしが所属している報道という世界。女性管理職の数は男性管理職の10分の1にも満たないかもしれません。

 

わたしはこの世界で28年間働いていますが、今まで、わたしより「上司」の立場で接した女性は、一人もいません。

 

つまり、一人の編集長どころかデスクもいない。これはたまたまわたしの身の周りだけの奇跡なのかもしれませんが、それにしても一人もいないというのが事実です。

マスコミは、日々、社会に蔓延する性差別や格差について報道をしていますが、実はかなり閉鎖的な世界で、実力世界と言いつつ、管理職に女性を積極的に登用しようとしているとは思えませんでした。

 

そういう事実に気づき、意識をするようになりました。

さらに、奥さんの茜さんの身に降りかかる「女性だったら当たり前」のセクハラやパワハラ、マタハラ・・・。

 

子供ができれば、子育て問題。そして、ママ友とのトラブル。

 

子育てが一段落して、子供を保育園に預けて社会復帰しようとしても、保育園に入れない。だから、仕事復帰できない。仕事復帰できたとしても、そこでまた起こる男性上司からのパワハラや男性だけではない女性からのモラハラの数々。

 

それだけ女性は、常に女性特有の問題と戦わざるを得ないのに、すぐに近くにいる女友だちは、いざとなったら誰も助けてはくれない。

 

冷えとりコーチとしての新たな目標

 

「逃げたいならどうやって逃げればいいのか? 戦いたいのであれば、どうやって戦えばいいのか? わたしだったら具体的な方法を提案できるのに!」

その思いが、わたしの中で大きく大きくなっていきました。

私もサラリーマン時代や若いライター時代に数々のパワハラやモラハラを受けた経験があり、悩み、苦しみ、もがいていましたが、女性の皆さまの大変さは私の比ではないと思います。

 

今、ようやく女性問題は大きく取り扱われるようになってきました。だからと言って、何一つ解決されてはいません。

 

国が動いて社会の制度が大きく変わることももちろん大切ですが、今、この瞬間に苦しんでいる方にとって必要なことは、

 

今そこにある危機から脱することです。

 

そのためには、

一人一人の個別の問題を個別に解決することが必要なのです。

 

だったら、わたしに何ができるだろう?

 

その思いから3年前の2月に始めたのが、

 

『レスキュー女子es』ブログです。

 

昨年6月、このブログを読んでくださった、ある作家の方から、こう言われました。

「風さんは、何のためにブログを書いてるの?有名になるため?人のために尽くすため?」

「一人でも多くの人に、もっと生きやすい人生があるということを知って欲しい。できれば直接伝えられればいいんですけどね」

「だったらコーチをやって見る気はない?風さんだったら、すごく向いてると思うんだけど」

そして、今、私はコーチングを始めました。

 

わたしも冷えとりコーチとして扉を開けたばかりです

 

フリーライターになってから今日までの歳月が経ちましたが、順風満帆で過ごしてこられた1年間は、一度もありません。

 

34歳の時、脳腫瘍を患い、慶應大学病院での15時間にわたる大手術のおかげで、わたしは命を救われました。

 

左耳の聴力と左顔面の感覚、そして平衡感覚が失われましたが、1年間のリハビリによって、健常者の方と変わらない生活を送ることができるようになりました。それもこれも、たくさんの方のお力添えがあったからこそです。

 

もう、みなさんおわかりの通り、わたしはエリートでもなければ、何か特殊な能力を持っているわけでもありません。

 

いつも何かの問題にぶち当たり、その度に頭を抱えて、

「どうしよう。どうしよう」

と、悩んでいるちっぽけな一人の人間です。

でも、その都度、周りの方に助けられ、周りの方のお力を借りてここまで生きてきました。

 

ただ、人よりちょっとだけ歳をとって、こういう仕事をして、命に関わるかもしれない病気を経験した分だけ、苦境には強いのかな?と思います。

 

苦しいときでも、ポジティブに生きる術を心得ています。

 

だから、

「悩みから抜け出したい」

「新しい人生に新しい一歩を踏み出したい」

「強い自分に生まれ変わりたい」

「やりたいことをすぐに行動できる自分になりたい」

 

そう考えている皆さまのお手伝いが、私にはできると確信しています。

 

少なくとも、

 

「心の冷えをとるコーチングをやってよかった」

 

そう思っていただけるはずです。

 

 

みなさんがまだ気づいてない自分の素晴らしい能力。そして、自分は本当は何を求め、どこへ向かいたいのか?

それを、引き出すことがわたしにはできると確信しています。

 

人は、なかなか前へは進めない生き物です。頭ではわかっていても、体が前へ動かないのです。

新しいことへの挑戦はこわいのです。

「まずは右足を出してみればいい。そして、次は左足。それさえできれば、簡単に前に進むよ」

でも、それができない。

 

なぜか?

 

足が冷え切っているからです。

 

体が冷えていると、思う通りに動かないですよね。無理に動かそうとすると、腰が痛くなったり、首が痛くなったり、体を中心を痛める結果になることが多くありませんか?

 

人生もそれと同じなんです。

 

あなたの中心を貫く心が冷えているから、あなたは動きたくても動けない。それに、気づいてさえいない。

 

まずは、その「心の冷え」に気づいて、取り除く必要があります。

体の冷えをとると血液が体の先の方まで流れることができます。

それと同じように、心の冷えをとって、めぐらせ、無駄なものは捨てて、自分の人生を動かしていくのです。

 

どうやって?

 

わたしとのコミュニケーションによってです。

 

コーチングを重ねることによって、「心の冷えをとり」、

同時に「成功のためのコミュニケーション」も修得していただきます。

「成功のためのコミュニケーション」とは何か?

 

あなたと話した相手が、あなたに、

「できる!」を感じるコミュニケーションのことです。

つまり、

あなたに”魅力”を感じてもらう。

 

ビジネスの成功は、相手から、

「あなたと一緒に仕事をしたい」

「あなたのビジネスを教わりたい」

そう感じていただけることから始まります。

 

そのためのコミュニケーションをコーチングによって、自然と身につけていただくのです。

 

わたしと一緒に悩み、一緒に考え、進み、ゴールのテープを切りましょう。

 

わたしはお約束します。

 

コーチングを終えた時には、必ずなりたかった理想のあなたになっているはずです。

さあ、一緒に扉を開けましょう。

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心に冷えとりコーチ風宏(Kaze Hiroshi)

風宏の心の冷えとりコーチング受付始めます!わたしの「心の冷えとりコーチング」に、ご興味をお持ちの方、コーチングを受けてみたい方、お申し込みをご希望される方は、まずはお問い合わせフォームより、ご連絡ください。 それでは、心の冷えをとるコーチングとはどのようなものなのかをお知らせしたいと思います。 女子に起こる様々な問題を解決し、あなたの新しい扉を開けてみませんか?...
風宏(Kaze Hiroshi)
この記事を書いている人

風 宏(Kaze Hiroshi)

 風宏

心の冷えとりコーチ

冷えとり歴13年目。靴下6枚ばき、半身浴20分。最近お酒がやめられるように変化した2015年2月4日より、女性のための問題を解決するブログを開始。2016年9月GCS認定プロフェショナルコーチ資格取得。女性のための心の冷えとりコーチング講座も開催。