私には夢がありました。なかなかそうしたいという踏ん切りがつかず、いつも何かしら言い訳をして現状維持をしていました。
そして、いよいよ50代に突入してしまいました。
この記事は、
変わりたくても変われない
私と同じようにお悩みの方に向けて書いています。
その場でグルグル回ることが心地よかっただけ
わたしには、若い頃からの夢があります。
カフェを経営して、文章を書いて、たくさんの人と交流をして、
最終的には、「自分がたくさんの人様のお役に立ててよかった」と実感できる人生を送りたい。
この夢の元になっていた想いが、
「やりたいことだけをやって、好き勝手に生きて、たくさんの人から感謝されたい」
これ、誰もが思っていること。
この誰もが思っていることを、わたしなりに妥協せずにやってきた結果が、今のわたしです。
「やりたいことだけをやってきた」
結果、50代になって得られた答えが、
「ここはどこ? わたしは誰?」
なのですから、
「そんなん知らんがな。自業自得やないか〜」
て、だけの話です。
まったくその通り、誰のせいでもありません。誰かに、わたしの自由を束縛されたわけでもない。わたしがやろうとしてきたことを邪魔されたわけでもない。
でも、ふと、気がつくと、思い切り、道に迷っていたわけです。
情けない話ですが、事実そうなのです。
わたしは、その場その場で決断に迫られたとき、自分の意思で、自分の判断で右に進むべきか、左に進むべきか悩んで決めて、歩いてここまでやってきました。
その過程で、道に迷うことはほとんどなかったはずです。
「この道で正しい」と、確信を持って歩いた結果、辿りついた街で感じたことは、
「あれ?違ったかな?なんか違うな…。どこで間違ったんだろう…」
どの街に到着しても、どの宿で一休みしても、なんとなく落ち着かない。その街をとりあえずの当面の目標にしていたはずなのに、到達してみると、なぜかしっくりこないのです。
だから、再び歩き出す。自分が正しいと思う方向へ。歩いているときはそれなりに快適なのです。だって、自分で選んだ道ですから。道は間違っていない…はず。
でも、到達して、ちょっと一休みすると、また「なんか違う」。
その繰り返しでした。
もちろん、その途中途中で先輩や信頼のおける方に相談もします。
「わたしは、どこに向かえばいいのですか?」
と。
「あれ?カフェやるって言ってたじゃん。まだ、やってないの? なんで?」
「だから、本を書きなって言ってるじゃん。前にも言ったよね。文章を書いて暮らしたいんでしょう?なんで書かかないの?」
そう言われるたびに、
「まだ早いですよね。修行が足りない」
「自分にそんな才能があるとは思えないんですよ。書きたいと思っても書けるわけじゃないし」
「カフェやろうにもお金がないんですよね」
「まだまだ経験が足りないです」
その都度、そう言い訳ばかりしていました。その言い訳に対して、
「やってみないとわからないよ。案外簡単に成功するかもよ」
とか、
「腕は確かなんだからやってみればいいのに」
とか、常に自信のないわたしを励ますような言葉を言ってくれる人もたくさんいました。
「そうですか? じゃあ…」
背中を押されて、決心して、わたしがやったことといえば、カフェの学校に行ったり、野菜ソムリエの資格を取ったり、ドッグアドバイザーの資格を取ったり、それらしいものをちょっと書いてみたり。
そして、
「もっともっと経験を積んで、いろんなことをやっていれば、必ずそのタイミングがやってくる」
そう納得出来る理由を言い聞かせて、いろんな知識や経験をどんどん積み上げていきました。
で、カフェの学校を卒業しても、
「まだまだ店をやるには早すぎる」
「物語らしいものを書いても、人様に見せられるようなものじゃない。もっと、ライターとして修行しなきゃ」
そして、また同じことを繰り返すのです。
つまり、絶対に、ゴールに到達しない。
だったら、やっぱり原点回帰だ!と、これが人生を転換できる最後と信じて、ライターの仕事を3年間、がむしゃらにやりました。
そして、ふと気がついたら、
「ここはどこ?わたしは誰?」
ここは、どこでもない。自分が一番よく知っている場所。
足の踏み場もないほどに物で溢れかえった自分の部屋だったのです。
わたしは誰?
歳をとったぶん、物をたくさん溜め込んだだけの、何も成し遂げてない人だったのです。
何から手をつけていいのかわからない。何が必要で何がいらないかもわからない。初めてドン・キホーテに入ったときのような感じです。どこに何があるのかさっぱりわからない。何を探していたのかさえ、わからなくなりそうです。
わたしは、ただただ、街を徘徊して、
「これ便利だな〜」
と、思ったものを拾ってきて、部屋にどんどん溜め込んでいただけだったのです。
わたしは、どこにも向かってはいなかった。ただ、ゴミ拾いをしていただけだったのです。
リスクを伴わないと、前にはすすめない
前に進んでいると思っていました。
でも、まったく、前には進んでいませんでした。同じ町内をグルグル回っていただけ。一周して、二周目は違う道を歩いて周り、三週目はまだ歩いてない道を行く。そうすると、同じところをグルグル回っていることに気づかなくて済みます。
そうやって、前に進んでいる気になって、安心していたのです。だって、勝手知ったる町内です。どこに危険があるかもよく知っている。だから、リスクも伴わない。
もちろん、それだけ同じところで徘徊しているのだから、狭い中での成長もあります。どこのスーパーの方が安いとか、どう行ったら近道だとか。
でも、憧れの高級スーパーには絶対、着かない。
自分がやりたいと思っている目標には絶対に届きません。
だって、高級スーパーに入ることを恐れているんですから。それ以前に、慣れ親しんだ町を出ることを恐れているのですから。
行ってみたら、良いものはたくさんあるのは間違いない。でも、知らないから怖い。スーパーを見つけたとしても、相場のお金を払わないといけません。そのお金を払う自信がないのです。
今までよりも高級なものは、今までよりも多くのお金を払わないと、買えません。
つまり。
リスクを伴わないと、前にはすすめません。
わたしは、そのリスクを極端に恐れていたのです。
自問を繰り返す
リスクが怖いから、前にすすめない。
それは明白です。
明白ですが、その恐怖心を取り除くことができないのです。
なぜなら、その恐怖心の元がわかってないからです。
そうです。
”心の毒”が、なんなのか、わかってないからです。
そのことに、ようやく気づけたのが、3年間がむしゃらに働いたからでした。
「3年間、一生懸命に働いた。それなのに、何も変えられない。なぜだろう? 自分のどこに問題があるのだろう?」
そう心から真剣に、自問したからです。
50代になって、ようやく、その質問にたどり着くことができたのです。
もう何度もやってきたことですが、もう一度、立ち止まって自分を振り返ります。自分はなにがやりたかったのか?
「やりたいことだけをやって、好き勝手に生きて、たくさんの人から感謝されたい」
それはわかっているし、それはできている。それをやってきた結果が現状なんだから、もう、それはいいんです。
そんなことは、もう振り返っても仕方ないんです。そうではなくて、
自分がやりたかったこと。そして、今からでも、できることはなんですか?
カフェを経営して、文章を書いて、たくさんの人と交流をして、
最終的には、「自分がたくさんの人様のお役に立ててよかった」と実感できる人生を送りたい。
ですよね?
それでしたよね?
それは、今でも変わりませんか?今でも、その思いは同じですか?
質問を繰り返します。
変わらない。やっぱり、わたしの人生から料理と文章は切り離せない。
料理は、東京に出てきて、大学2年生のとき、初めて飲食店でバイトをして、美味しい食事をする。美味しいものをつくる喜びを知ってからずっと作り続けてきました。いつか、店をやりたいと飲食店の経営も学びました。その思いは変わりません。なによりも、文章の構想を練るときや、取材方法を考えるのは、いつも料理をしているときです。
どんなにストレスが溜まっていても、頭痛が激しくて嘔吐するような状態でも、キッチンに立ち、料理を始めると、そのときだけ頭痛はおさまるのです。
好きなだけじゃなくて、性格的にも向いていると思っています。
そして、わたしは、なにより人と会って話すことが大好きです。話を聞き、文章にまとめることが大好きなのです。自分の書いた文章が上手だとか、おもしろいと思ったことは一度もないけれど、書いている状態が好きでした。パソコン画面に向かって集中している状態が好きなのです。
残念ながら、20数年文章を書いていても、小説を書きたいと思ったことは一度もありません。
読むことは大好きですが、書きたいと思ったことはないのです。
この思いは、20数年、まったく変わってないことに気づいたのです。
「そうか…。おれは変われないのか…」
見た目を変えられても、中身は変えられない
わたしは、頭のどこかで、
「ある日、突然、天からの啓示の受けて、生まれ変われたらな〜」
と、願っていました。
脳腫瘍になったときも、
「腫瘍を取って目が覚めたら、急に天才になっていたりして…。これだけのリスクを負っているんだから、手術が成功したら、これくらいのご褒美くださいよ〜」
なんて、本気で思ったりしてました。
どこかで、他力本願を願っていたわけです。
自分で、考えても考えても答えが出ない。でも、そのどこかで、常に他力本願を期待していたのです。そんな想いは、どこにも届きません。その時点で本気ではないのですから。
真面目にずっと、一つのことをやり続けていたら、どこかの時点で、自分から動ける人間になっているはずだ。どこかの時点とは、どこなのか?それを自分では決めないで、どこかの時点と言っている自体が、他力を期待している証拠です。
でも、どこかの時点は永遠に訪れません。だって、
「どこかの時点〜!」
と、いくら神様にお願いしても、
「どこかってどこ?」
と、聞き返されるだけですから。
結局は、
どこかの時点と、言っている時点で、変わる気がないのです。先ほどの話とこれも同じ。要するに、リスクが怖い。
そこで、また次の質問です。
でも、わたしは、ただリスクが怖いから変われないのでしょうか?
つまり、本当に変わりたいのでしょうか?
人間ですから、変身願望はあります。これは、誰にもあると思うんです。だから、動物とは違う。ほとんどの動物は生まれから死ぬまで季節の変わり目の毛の生え変わりはあっても、見た目はほとんど変わりません。
でも、人間は、見た目を変えたい。
だから、服装も変えるし、髪型も変える。住居も変える。環境を変えます。
変えないと自分に飽きるからです。
自分を変えたいという願望がある動物なのです。
だからと言って、中身も変えたいと誰もが思っているわけではありません。
わたしはずっと中身も変えたいと願っていました。極端な積極性と消極性が同居するわたしの中身を全て、積極性に変えたいとずっと願っていました。
しかし、それは、本心なのでしょうか?
言い換えれば、積極性は軽い。消極性は真面目。
積極性をポジティブとするならば、一箇所で20数年、同じことを黙々と続けていたわたしは消極的で臆病者かもしれない。事実、
「自分を変えたい」
と、積極性を求めていて、手に入れられてないのだから、消極的で臆病者なのでしょう。
でも、わたしが、職人気質なのだとしたらどうでしょう?
石の上にも三年どころか、20数年です。十分、忍耐強い。しかも、かなり真面目。
かつて、職人さんにお話を伺ったときに、3年勤めたら転職を繰り返してキャリアアップをはかる生き方をどう思いますか?と、伺うと、
「そういうのをポジティブと言うのかもしれないけど、俺に言わせれば軽いよね。仕事ってそんな軽いもんじゃないよ」
そう仰いました。
「軽いか…。そういう考え方もあるんだ」
その程度の認識でしたが、今だとなんとなくわかります。
わたしたちの業界では、似たような本や雑誌がたくさんあります。似たような情報誌がたくさんあり、似たような料理雑誌がたくさんあり、似たような男性誌、似たようなニュース雑誌、似たような女性ファッション誌。
その中で働くライターさんやカメラマン、フリーの編集者やデザイナーさんは、キャリアアップのために職場を変えると言っても、同じジャンルの雑誌間の移動がとても多いのです。
だから、昨日まで同僚だった仲間が、翌日からライバルなんていうのは当たり前です。わたしのようにニュース雑誌のライターは基本、スクープを生まなくてはなりません。結果、現場で鉢合わせなんてのは日常茶飯事です。
昨日まで、たわいもない会話をしていた相手と、探り合いのような会話をすることになります。
わたしは、そういうのが苦手です。
仕事は真面目に取り組みますが、他を出し抜くとか、競争することが好きではありません。かつて、何度か、他の出版社や雑誌からお誘いを受けましたが、同分野の他誌に移籍するという発想を持てません。今まで20数年お世話になった出版社を辞めて同業他社に移るという発想を持つことはできませんでした。
そのわたしの発想を、わたしは、移籍が当たり前だと考える側の立場に立って、
「自分はなんて消極的なんだ!」
ずっとそう思っていましたが、自問するようになって、気づいたのです。
「おれは、職人気質?」
富は、限られた人のための特権ではない
アメリカのCNNによりますと、世界の人口の1パーセントの富裕層が世界の資産の半分を牛耳っているそうです。
残りの半分を99パーセントの庶民が争っている。
もっと、はっきり言うと、
世界の資産の半分を牛耳っている世界の人口の1パーセントの富裕層が、残りの半分を争って99パーセントの庶民を戦争に送り出している。
だから、
「庶民は立ち上がって他国の富裕層から富を奪い取れ!」
富裕層に先導され、人々はますます戦いに駆られます。
悲しいですが、現実です。
でも、わたしはそうは思わないんです。どこの部分かというと、
富が限られている。
と、いう部分です。
たしかに、石油の埋蔵量は減っています。森も減ってきています。オゾン層が薄くなり、自然が減り、豊かな心が減っている。
のかもしれません。
でも、同時に、水素を新たな燃料とし、森を増やす活動が活発化し、二酸化炭素量を減らすべく、世界が動き出し、考え方の多様化によって、新たな価値観が生まれようとしている。
そういう意味では、東日本大震災は、世界のエネルギー政策、自然回帰の大きな転換点になりました。あれから、間もなく5年。まだまだ、新しい取り組みは始まったばかり。
世界は、新たな富を生み出すことに必死です。
そうです。富は常に新たに生み出されているのです。
その富を生み出しているのは誰ですか?
一部の富裕層ですか?
お金を出すのは彼らです。
でも、考えるのは、わたしたち一人一人です。
わたしたち一人一人が、富の源泉なのです。
わたしたち一人一人が富を生み出しているから、進化、発明、発展があるのです。
それは、過去も現在も不変の法則です。
発明は誰かの考えを奪ってできるものではありません。限られた資源ではないのです。
ここで、一気に世界観を小さくしますが、わたしの仕事で考えます。
ひとつのスクープを、たくさんの報道機関が追っているとします。一人の証人の行方をみんなが追っています。その事件には、その一人の証人しかいないのでしょうか? 違います。どの社もその証人の存在しか知らないのです。だから、みんなが追い回す。みんながなんとか他社を出し抜きたいと思っている。証人は、自分が追われていることを知っています。だから、逃げます。逃げる相手をみんなで追い回す。最終的にスクープを報道した社の記者は何をしていたか? 一緒にその証人を追いかけていた?
違います。
他の証人の存在を探していました。
この記者は、富は他にもある。富には限界がないと気づいていたのです。
続きは、風宏の心の冷えとりコーチング「心をさらけ出せ!3」ダメな時こそ動き回れ!その結果起こった出来事をご覧くださいませ。
(執筆者:心の冷えとりコーチ 風宏)