現在、うちの子供は中学生になりました。公立小から私立中学へ。
実は私立の方が手厚いと思い込んでいましたが、振り返ってみると、公立小の頃の方が、先生は親に気を使っていたように思います。
今日の記事は、子供のための学校にすべきでは?という私の考えを述べたものです。
いまの小学校は?
みなさんのお子さんが通う小学校ではどうでしょうか?
わたしの娘が通っていた公立小学校は、校舎がとても新しいので、いまの文部省の教育方針の考え方というか、いまの学校教育が何を目指しているのかが校舎の作りを見るだけでもよくわかります。
この学校には、廊下という概念がありません。廊下はありますが、幅が5メートルくらいあり、教室と廊下を隔てる壁がありません。あるのは隣のクラスと隔てる壁だけです。
見通しがとてもよく、廊下のどの場所に立ってもクラスの端から端まで見通せるような作りになっています。セキュリティー面を考慮した結果なのでしょうか?
少なくとも廊下と教室を隔てる壁がないだけでも、普段子供たちが過ごす教室が”閉ざされた空間”ではないので、ものすごく”開放感”があります。
いじめの原因の一つとして、よく「教室の閉塞感」といった話しがありました。この”開放感”はあくまで物理的な面だけでですが、せめてそれだけでもと、考慮したのかもしれませんね。
だから、その分、音がだだ漏れなのです。隣のクラスの授業中の声も、子供たちの「はいはい」と手を挙げる声も音読する声も、なにより先生の声が廊下中に響き渡ります。
授業中でも学校中がとても賑やかなのです。
これを好意的に考えたら、最近、自宅での勉強は閉ざされた子供部屋ではなく、家族と過ごすリビングでいろんな雑音のあるところでやるのが効果的なることが言われておりますが、「子供たちの集中力を養うためには、ある程度、雑音や障害のある場所で勉強したほうが良いのだ」と、いうことなのでしょうか?
ちなみに、授業の始業と終業のお決まりのキ〜ンコ〜ンカ〜ンコ〜ン?のチャイム。鳴りません。見ていると、どうやら、先生のタイミングで始まり、先生のタイミングで終わります。だから、10分過ぎても終わらないなんてザラです。廊下では他のクラスの子供達が大騒ぎしていますが、その横で淡々と授業が続いている感じです。
だから、観ているこっちからしてみると、ボヤ〜ッと始まり、ボヤ〜ッと終わります。
ランドセルの裏蓋に入れていた時間割表。あることはありますが、ほとんど意味をなしていません。つまり、時間割通りに授業が行われていません。前日に翌日の授業の時間割が生徒に渡されて、そこで、生徒は明日の時間割を知る。
だから、親も毎日、
「明日は何時間?」
と、聞かなくてはなりません。
だったら学期の始まりに渡される時間割いらないじゃん。
そうなります。あいかわらず、無駄なプリントがやたら多いです。
しかも、非常にわかりにくく、よ〜く読まないと大事なことをうっかり逃してしまう作りです。あるお母さんは、
「まるで罠のようなプリントだ!」
と、言っていたのが、印象的です。
先生の立場になると、毎日こんなにもたくさんのプリントを作る時間を計算しただけで、ものすごい残業量だということがわかります。こういうお決まりのルーティーンをこなしつつ、生徒一人一人のことを考えなくてはならないのです。激務です。ブラック企業並みに。
しかし、これらの改革は、学校と教育委員会の方が一生懸命考えてこのようなシステムに改革していったのだろうから、それなりの理由があるのだろうと思います。
が、
「わたしたちの時代にはなかったけど、こういうのいいよね」
と、いう感想も正直、浮かんでこない。なぜなら、これの何がよいのか、わたしにはピンときません。まあ、結果は、いつも数年後にならないとわかりませんからね。
教室内に目を転じてみましょう。
正面には定番の黒板があります。ただ、そのすぐ横には、巨大なモニターが。そうです。ポータブル携帯パソコンを使用する授業のためのモニターです。
何度か、パソコンを使った授業を見学したことがありますが、先生も生徒も1時間、まったく顔を上げませんでした。先生が質問をして、生徒が答えていますが、双方ずっと下を向いたまま。聞いていても会話の内容がまったくわからない。隣にいた初対面のお父さんと、
「この授業なんなんですかね〜。こんな授業をわたしたちに見せて何を感じろって言うんですかね〜」
なんて、ずっと首を捻っていました。そういうことも合わせて感じてもらうための授業だったのでしょうか?
「いまの小学校を全て知ってほしいんです!」
っていう。
なによりも驚いたのが、教壇がない。
教壇がない理由
いつから?
少なくとも、古い校舎のときから。娘が小学校1年生になったとき、すでに教壇はありませんでした。
なんで?
弁慶の泣きどころをぶつけたら、もんどり打ってしまうから?
バリアフリーなの?
たまに耳にするフレーズ、
「教師は生徒と同じ目線でなければならない」から?
「教壇は権威の象徴」だから?
まあ、理由はわかりません。おそらく、教育委員会に問い合わせたら、慇懃(いんぎん)な回答をしていただけるのでしょう。
でも、そんな回答はどうでもよいのです。
問題は、教壇をなくすことに意味があるのか?
教壇をなくしたことで、過去に比べて、生徒にどういう変化がおき、学校という環境がどう変わったのか?
そういうことだと思います。
しかし、なぜ、教壇をなくしたのか?初めての授業に見学に行ったとき、授業が始まって、先生の発言を聞いていると、その理由がすぐにわかりました。
「◯◯さん、この問題わかりますか?」
「◯◯さん、そのとおりです。とってもいい回答ですね。はい、ではみなさん◯◯さんに拍手してください」
「◯◯さん、静かにしてください」
「◯◯さん、どうしてあんなことを言ったの?そいうことを言ってはいけません」
そうです。先生が小学1年生に、”さんづけ”しているのです。
男の子にも、「◯◯くん」ではなくて、「◯◯さん」しかも、苗字で「風さん」みたいな。
あ、やっぱり、教壇は権威の象徴なんだね。教師は生徒と対等の立場で同じ目線に立たなくてはいけないから教壇をなくしたんだね。
そう気付きました。一番、そうであってはほしくない理由だったのです。
子供相手に「◯◯さん」なんて〜。靴下を履いてサンダルを履いた感じとでもいうのでしょうか。ナイフとフォークを使って焼き鳥を食べる感じとでもいうのでしょうか。それとも、クリスマスパーティーに紋付袴で参加するような感じでしょうか。要するに、
「使い方を間違ったらどんなに丁寧でも意味ないよね」
と、いう違和感を感じずにはいられなかったのです。
そりゃそうです。
だって、わたしは、子供に対して、「◯◯さん」なんて話しかけたことなんて一度もない。友人の中学生になる娘さんにも「◯◯ちゃん」って、呼んでます。
街を歩いていても、そんなの聞いたこともない。知人がわたしの娘に「音さん」なんて言ったこともない。
だから、変に感じるに決まっている。
なぜ「◯◯くん」「◯◯ちゃん」じゃ、いけないのでしょう?
なぜ、「◯◯!静かにしろ!」呼び捨てじゃいけないのでしょう?
学校が終わったあとの校庭でのサッカークラブなどのクラブ活動では、さっきまで”さん付け”していた先生が、生徒のことを呼び捨てにしてますよ。これは呼び捨てのままでいいんですか?てな、疑問がわかないんですか?先生方は?
「先生から◯◯くんって”くん付け”された。絶対に許せない。差別だ!」
「先生から呼び捨てにされた。バカにしてる!抗議だ!」
なんて、声を挙げる子供がいるとは思えない。
にもかかわらず、先生たちの子供たちに対するバカ丁寧な対応はいったいなんなのでしょう?
やっぱり、”教師は生徒と同じ目線でなければいけない”と、いうことなんでしょうね。
だから、教壇をなくして、言葉遣いを丁寧にして。
でも、それって、あくまで外見上のことだけであって、本当にこういう言葉遣いをすることで、子供と教師の距離は縮まっているのでしょうか?
てか、逆に教師と生徒の距離を縮めないためなのか?
だって、こういう言葉遣いをすることで、ある一定以上の距離は絶対縮まりません。
丁寧な言葉遣いというのは、お互いを尊重しあうという意味においてはとても大切なものですが、
時間が経って、お互い、気心が知れてくると自然と距離が縮まるものです。距離が縮まれば、当然、言葉遣いも変わってくる。そういうものです。
先生がいくら生徒のことを「◯◯さん」と頑なに”さん付け”で呼び続けても、生徒は、先生のいないところでは、勝手に呼び捨てにするし、あだ名をつけるし、ファーストネームで呼ぶようになります。それが、親しみの合図でもあるからです。それを先生に直接言うことを許すか許さないかは個別のコミュニケーションの問題であって、学校全体で取り決めを行うようなことではないと、わたしなんかは、思うところです。
だから、先生が生徒を「◯◯さん」と”さん付け”で呼ぶ。
これは、結局は、生徒と先生の関係をスムーズにするためというよりも、
一部の”小うるさい親たち”を満足させるためだけの方便のような気がしてならないのです。
「学校は、生徒一人一人を尊重しています。えこひいきしてませんよ。みんなを均等に、平等にあつかってますよ。だって、みんなを平等に”さん付け”で呼んでますし」
的な。
月一授業参観は誰のため?
娘の通う公立小学校では、月一回のペースでどこかの土曜日に授業参観日が設けられており、この日は、何時間でも、どこのクラスの授業でも自由に見学できるようになっていて、教室の中を勝手に出入りできます。
だから、先生一人一人の教え方の違いを比較しようと思えばできるし、粗を探そうと思えばいくらでもできる。
わたしには、
「親御様、どうぞ、われわれ、学校の施設、教師の質、どんどん粗を御探しくださませ」
学校側にそういう意図があるとしか思えない。
だって、月一ですよ。
なんで、月一も授業参観を行う必要があるんですか?
子供の様子を観てもらいたいから? たったひと月で子供の様子の何が変わるというんですか?
いじめを監視できますか?できるはずない。
じゃあ、なぜ?
”開かれた学校”をアピールしようという意図?
親御さんによる学校のチェック体制を強化し、教師の緊張感を保たせるためですか?
であるならば、それは見事に達成できているでしょう。
しかし、この月一授業参観が、果たして子供達のためになっているのでしょうか?
わたしの娘は、必ず、
「明日は、2時間目の算数に来て。発表することになってるから。絶対だよ!」
要するに、子供にとっては、この日は、一日、親へのアピールDAYです。
「わたし、こんなに頑張ってるんだよ〜!」
て。それはそれでいい。それで子供が頑張れるなら。でも、頑張れない子はどうすればいいんですか?
わたしなんて、基本暇なので、その時間に観に行けます。だから、わたしは毎月、観に来て欲しいと娘の言う時間に学校に行きます。娘は俄然張り切ります。親の前で思い通りにできたら自信もつくでしょう。
しかし、親が来れない子にとって、この日は、なんなんでしょう?
授業参観日は必ず土曜日。だいたい、教室の後ろで観ている親御さんの顔ぶれが決まってきます。土曜日に仕事がお休みの親御さんたちです。でも、土曜日にお休みが取れない親御さんは来れません。だから、絶対に親が観に来れない子供たちもたくさんいます。
この差は、学校は気にならないのでしょうか?
この差を埋めるつもりはないのでしょうか?
それとも、この差を埋めるのは不可能ですか?
簡単に埋められると思います。だって、そもそも、
授業参観って親御さんに見てもらうための授業ですよね。そのために月一でやってるんですよね。
だったら、きちんとアンケートをとって、たまには曜日を変えることくらいできませんか?
(ただ年に一度は学校参観週間というものがあり、平日の参観が可能となっている。それで対応をしているのでしょうけれど、毎月一度の土曜公開授業はあり過ぎなのではないかと思う次第です。)
子供の気持ち
ふた月前、授業参観日の休み時間。わたしが廊下の端に座っていると、男の子がわたしの隣に座りました。何度か話をしたことがある男の子です。手の甲が触れるか触れないかの距離です。もうほとんどくっつくような感じ。直感で、「弱ってるな」そう思いました。
以前、お母さんがよく参観に来られてましたが、数ヶ月前に転職をして、土曜日が仕事になり、参観に全く来れなくなっていたのです。
その男の子がわたしの隣に座り、寂しそうに下を向いていたので、
「どうした?元気ないじゃん」
そう聞くと、それには答えず黙って立ち上がって窓から外を見ながら、
「お母さん遅いなー。今日、来るって言ったのにな〜」そう言います。
「お母さん今日、来れるんだ。よかったじゃん。約束したんだろ。大丈夫だよ。もうすぐ来るよ」
「別に〜」
その子はそのまま教室に戻っていきました。
その子にとって、母親が来るまでの授業は、ほとんど意味を成しません。耳に入ってないでしょう。もし来れなかったら、土曜日の授業参観日は、丸一日無駄になります。さらに苦痛だけを感じる日となります。
学校はそのことに気づいていますか?
気づいているけれど、外部によるチェック体制強化のために仕方がないのですか?
それも人生の修行ですか?
そんな修行はまったく必要ない。学校側が、回避しようと思えばいくらでもできるんですから。
では、どうやったら?
学校が、親の方ばかり見てないで、ちゃんと子供の方を見ていればいいんです。
粗探し症候群
たしかに、
モンスターペアレントは恐ろしい存在です。
彼らのせいで、教師を辞める先生が後を絶たないし、元教師専門の転職サイトがあるくらいです。
いまの時代、
学校にとって、彼らを黙らせることが第一命題になっていると言っても過言ではないでしょう。
そのために、学校が一番力を入れていることが、
逆に、
子供を置き去りにする原因になってはいないか?
このことを、考えたことがおありでしょうか?
授業参観日はたしかに親にとって大切なイベントですが、月一で行われる必然性をどうしても感じることが、わたしにはできないのです。
でも、あるとなれば行きます。先ほども書きましたが、多く行けば行くほど、粗が見えてきます。
粗が見えてしまうと、言いたくなってきます。わたしがいままで書いてきたように。
だから、
モンスターペアレントにとっては、恰好の材料がどんどん増えていくわけです。
それを、すべて受け止め、きちんと対応できる体制や覚悟が、おありならそれで構いませんが、現実はそうではありません。
だったら、
やらないという選択があってもいいのではないでしょうか?
(執筆者:心の冷えとりコーチ 風宏)
続きは、学校の先生!親の顔色を伺うのではなく子供の顔だけを見ましょう3〜学校の変なルールもご覧くださいませ。