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毒親に育てられた娘と母との相互依存関係1母親と娘の関係とは?

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年老いた両親の介護のために独身を貫いている中年世代の男性女性がたくさんいます。

わたしや茜さんの周りにも、そういった方々は本当にたくさんいます。

多くの方々が経済的にも追い込まれ、二進も三進もいかなくなる状況に陥っているのです。

今や大変な社会問題です。

当事者だけではなく、社会全体で考えていかなくてはならないのは自明の理ですが、今までの経緯を見ても、現状を見ていても、行政が増え続ける介護世帯の現状に適切な打開策を講じてくれるとはとても思えません。

わたしは介護の経験がないため、そういう方々のご苦労は想像でしかわかりません。

とはいえ、わたしの両親も高齢。いずれは経験することになるかもしれません。そうなると、兄も東京で生活しています。お互いの奥さんにも親がいて長女。そちらの両親のことも考えなくてはなりません。

もし仮に、どちらも要介護なんてことになったらどうすれば良いのか?

要介護になってもいないのに、そこまで今から心配するのはどうなのだろうか?とか、いや、もしもの時のためにきちんと兄弟で話し合っておかなくてはならないのではないか?とか、考え出したらきりがありません。

ただ、兄はサラリーマンですが、わたしはフリー。そうなると、必然的にわたしが一人九州に戻り、介護することになるのではないか。それが一番シンプルな解決法だと思っています。

いずれにしろ、無視できる問題ではないことは明らか。

そこで、今回は、その中でも、「母と娘」の関係について考えてみたいと思います。

 

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母と息子

その前に母と息子です。

そうです。私と母。

母は、わたしが若いころ。まだ独身だったころ、よくこう言ってました。

「私たちが年取ったらお兄ちゃんとあんた、どっちが面倒見てくれるんね。どっちかが見てくれんとわたしたち死んでしまうがね。頼むよ。そのためにもちゃんとお金稼いで頑張ってもらわんと」

それが結婚するとトーンが少し落ちました。

「どうせ、あんたは東京から離れんやろうし、もしお父さんが先に死んだらわたしも東京に行こうかね。そしたら面倒見てくれるかね?でも、わたし、東京行ってもなんもできんもんね〜。たまに帰ってきてくれるだけでもええか」

子供ができると、

「もうわたしたちのことは心配せんでもええよ。子供がおったらこっちには帰ってこれんやろ。教育とか友達とか、転校はかわいそうやけね。こっちはお父さんと助け合っていくけ〜。二人とも寝たきりになったらそんときゃそんときよ。あんたはなんも気にせんでええ。子供のことだけを考えり」

奥さんとうまくいってないということも気遣ってのことかもしれませんが、こうやって気を使われると、逆に、

「いや。息子なんやけ、もしもの時には俺がなんとかするよ」

そういう気持ちにはさせられます。

年老いた親に気を使わせるようでは、男としてどうなの?

そう自分に問いかけるのです。

ちなみに、父は、そういうことについては一切何も言いません。男の見栄というか、やはりどこか、かっこつけたい部分があるのでしょう。何も言いませんが、

「お前らの世話になるようなことはせん!」

そういうプライドを感じます。その気持ちはものすごくよく分かる。男は子供ですから、いつまでも、若い気持ちを忘れたくない。

だからこそ、

「俺がなんとかするけ、心配せんでいい」

ついつい、わたしにも男気みたいなものが出てしまう。まんまと両親の術中にハマっているだけかもしれませんが。

もし仮に、わたしが独身のままで親とずっと同居していたとしたら、父と母の態度は今とは全然違っていたでしょう。

ある時期までは息子の結婚を望み新しい家庭を気づいてくれることを願うでしょうが、ある年齢を超え、それが望めないとなると次に望むのは、老後の自分たちの面倒です。すごく自然の流れです。

40になっても50になっても親と同居したままだったり、すぐに帰郷できるような近場に住んでいれば、相互依存の関係になる方が自然です。

親は子に面倒を見てもらいたいと思うだろうし、子は親の面倒を見るのが当たり前のことだと理解しているでしょう。

いまは経済的にはいつまでも親が負担して、面倒だけは子供は見るというパターンも少なくはないでしょう。全く問題ないということはないのでしょうが、親にとっては想定の範囲内ではあるでしょう。

そこに、お互いの口には出せないわだかまりや、何かカルマといった複雑に絡み合った感情的なものはさほどないように思うのです。

しかし、それが、

母と娘の場合だと、全然違います。

お互いがお互いを拘束し合い、お互いがお互いの犠牲となり、お互いがお互いの囚われの身となる。

その傾向が、かなり強いように思うのです。

 

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義母と茜さんの場合

茜さんと茜さんのお母さんの関係は非常に微妙です。

親子であるがゆえに分かり合えないというか…。

ただ、こう言うと、茜さんは異論を唱えるでしょう。

「わたしは彼女の気持ちはわかっているよ。わかっているし理解してあげようとずっとやってきた。でも、あの人は、わたしのことを理解しようとか、子供のために何とかしてあげようとか、ここは子供の話を優先しようとか、そういう気持ちがまったくない。常に私を下に見て、子供は親に従うのが当たり前だというスタンスは絶対に譲らない。そもそも対等に話をする気がない。あの人は自分の子供のことを自分の所有物としか思ってない」

なぜ義母はそうなのか?なぜそう思うのか?を聞くと、

「自分のことだけが好きなのかも? 自分のことしか考えていないから、自分の子供のことも孫のことも自分の次になるんじゃないかな?」

そういう答えが返ってきました。

茜さんのお母さんの生い立ち(私の義母)

義母は、北陸のとある自動車部品会社の長女として生まれました。彼女の父、つまり茜さんの祖父は創業者です。祖母は地元では有名な老舗呉服問屋と機械工場の次女。(2つの会社を経営していました)祖父は子供の頃、そこに兄とともに丁稚奉公に出ていました。

そこで修行を積み、兄は長女と結婚し婿養子となり店を継ぎます。祖父は次女と結婚しました。奉公人とお嬢様の結婚。しかし、呉服問屋の方は長男夫婦が継いだので、祖父は機械工場を継いだのでした。

のちに祖父の継いだ会社が大成功して、呉服問屋に負けないくらいの規模まで大きくなりますが、最初からうまくいったわけではありません。最初は貧しい生活からのスタートです。

しかし、祖母は、生粋の北陸の大店の呉服問屋のお嬢様でした。乳母に育てられ、家の中には常にお手伝いさんや調理人や奉公人がたくさんいて、自分はただ突っ立っているだけで毎日きれいな着物を着せられて、お人形のように育てられていた人です。

貧しい暮らしというか、普通の暮らしをしたことがありません。当然、家事などやれるはずもない。しかし、祖父はもともと奉公人。立場としては結婚しても祖母よりずっと下。だから、祖父は祖母に何も要求しないし、何も求めません。文句を言うことなどありえないのです。

と、言っても、祖父は会社を立ち上げたばかりで昼夜惜しまず仕事に没頭しています。お手伝いさんを雇う余裕はありません。いやでも、祖母ができない家事をしなければいけない。料理も掃除も結婚するまでまったくやったことがないのです。それでも、やらなくてはならない。

祖母には、辛く悲しい日々が続きます。

ただ、子宝には恵まれ、子供は次から次へと生まれました。茜さんの母親が長女、次女、三女、長男の順で4人です。

祖母は、物心つくか、つかないかの年齢のうちから義母を仕込み始めます。そうです。お手伝いさんのように家の中の全ての仕事を教え込むのです。

義母は、幼い時分から母親の「囚われの身」となったのです。

祖母のやったことは、奉公人に対するそれとまったく同じでした。

料理を仕込み、針仕事を仕込み、掃除を仕込み、弟、妹たちの世話を仕込む。

それに対し、仕事一筋の祖父は何も言わない。

義母の育った家はそういう意味では当時の普通の家庭とはまったく違っていました。

家の中で一番偉いのは母親。次に父親、その次は2番目に生まれた長男。そして、長女、次女、三女という順番になります。

と、言っても、長女は家の中の家事全般の全てを担わされているので、実際は一番下だったのかもしれません。義母は母親から叱責された記憶があっても、可愛がられた記憶はまったくないそうです。次女は体が弱く病気がちだったために祖母にとても大切に育てられました。三女は、祖母が次女につきっきりでしたので、乳母に育てられましたが、一番下の子供ということで父親にとても可愛がられていたそうです。

さらに義母の不幸は続きます。

彼女を奉公人のように仕込んでいたのはお嬢様育ちの祖母です。彼女はそもそも料理も針仕事も掃除もなにもできない。

そんな人に料理を教えられるとどうなるか?

不味くなります。料理下手に料理を教わっても上手にはなりません。義母は、祖母の作る不味い料理で育ち、不味い料理を仕込まれたのです。

でも、それが義母にとっての母の味であり、郷土の味でした。

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かけ蕎麦湯そば

茜さんと結婚して、初めての大晦日。彼女の実家に泊まりました。

年越し蕎麦は義母の手作りでした。

出てきたそばは、ドロドロのトロミがかったかけ蕎麦。見るからに麺はのびのび。

(え〜!?餡かけ蕎麦なの?しかも、これ、麺を煮込んでないか?すごい変化球だな〜)

そう思いましたが口にはしません。その家ごとにベースの味付けも好みの硬さも違います。

ちなみに、わたしの父の実家の年越し蕎麦は麺から祖母の手作りでした。蕎麦の実を引くところから始まり、つなぎ無しの十割そば。といっても、そばを麺にはせずに、お米のような大きさに細かく切って、里芋や椎茸、人参、鶏肉、大豆などと一緒に煮込み、食べる。蕎麦汁のような食べ物だったのです。それが、大人たちはみんな大好きなのだけど、わたしは大嫌いでした。蕎麦が臭くてたまらなかったのです。

でも、大人になると、不思議なんですね。あんなに嫌いだったあの食べ物を、今は食べたくて仕方がない。祖母が亡くなってから誰も作れないので二度と食べることはできないのですが、二度と食べられないとなると、食べたくて仕方がない。

今、もし食べることができたら、やっぱり、不味いと思うでしょうね。

これもまた、「囚われ」の一種だと思います。

話を戻します。

茜さん、茜さんの妹、そして、父親が当たり前の顔をして、

「いただきま〜す!」

の号令とともに食べ始めたのです。

わたしは恐る恐る箸をつけました。麺を持ち上げようとすると重い。ドロドロの汁が絡む絡む。途中でブチブチ切れる。

(わあああ〜。なんだこれ〜)

勇気を出して恐る恐る口をつけます。

(ん?なんだ?味がしない。蕎麦湯の味しかしないぞ…?あれ?え?これもしかして蕎麦湯?え?蕎麦を茹でて水切りしないでそのままお椀に盛ってるの?)

そう思っても口には出しません。だって、みんな黙って食べているから。

「どうかしら?お口に合うかしら?」

と、義母に言われて、

「いや〜。全然。はい…」

あとは、根性で流し込みました。

夜、茜さんと二人だけになった時、正直に本音を漏らしました。

「なんで、あんな蕎麦を平気な顔をして食べてるの?」

「だよね〜。やっぱり美味しくないよね〜。私も東京で蕎麦を食べるまで蕎麦は美味しくないと思っていた!なんであんなに美味しくないんだろう? お母さんは自分がそばが嫌いだからかな?」

「え〜?なんでって…。湯切りしてないからだよ。蕎麦が茹でた蕎麦湯にそのまま浸かったままじゃん。それにおそらく醤油かなんか入れただけでしょう?出汁もとってないでしょう?美味しいわけないじゃん」

「でも、あれが蕎麦だって言われてずっと食べてたから、あれが当たり前だと思ってた」

「外で食べたことないの?」

「あるよ。外の蕎麦は美味しいけど、お母さんいつも、『あれは塩分とかたくさん入れて味付けしているから美味しいけど体には悪いからよくない』って言って、ほとんど食べさせてもらえなかったから。家で食べる年越し蕎麦ってどこもあんな感じじゃないの?違うの?」

「…それ本気で言ってるの?マジか…。お父さんは何も言わないの?」

「昔は『お前の料理は不味い』って、いつも言ってたけど、お母さんが「私は美味しいものを食べに連れて行ってもらっていないから!」って逆ギレするから、いつからか言わなくなって、外で飲んで帰ってくるのが当たり前になった」

「そして、酔って帰ってきては暴力を振るうわけだね」

「そう」

「不味いって言われて、おかあさんはなんて言うの?」

「言い返すと暴力を振るわれるから何も言わないけど、わたしには、「お父さんのような貧乏な家の出の人間は濃い味が美味しいって思っているから、味覚がおかしいのはお父さんの方だ』っていつも文句を言ってた」

つまり、義母は、祖母から教え込まれた間違った料理法、間違った味を母親の味として信じきっていたのです。ずっとずっと不味い蕎麦を食べ続けていたのです。

その不味い料理を、茜さんはわたしと出会って、「不味い」と聞かされるまでずっと疑問に思い続けていたのです。

「お母さんの蕎麦は美味しくないけど、わたしの味覚の方がおかしいのだろうか?」

と。

「母親の味」と、いう魔法にずっと”囚われて”いたのです。

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母親からの逃避

義母は、高校卒業まで地元にいました。その間、ずっと母親の言いなりだったそうです。母親は彼女を奴隷のように働かせ、ありとあらゆる家事や弟妹の世話をやらせました。

会社経営が軌道に乗り、忙しく働く父が家に帰ってくることはほとんどありません。家に帰れば、母から見れば父は自分の奉公人です。父はそんな家に帰って来たくなかったのかもしれません。

祖母は義母に、いつもこう言われて育ちました。

「あなたは長女なんだから、ずっとこの家に残って、わたしの面倒を見てくれないと」

義母は、高校卒業と同時に、母親から逃れるように東京に出てきます。芸術系の大学に進学しますが、義母曰く、

「別に芸術に興味があったわけではない。ただ、東京に逃げたかった。母親の影響の及ばないところで一人で生きたかった」

義母は学生時代に義父と出会い、卒業と同時にすぐに結婚するのです。

そして、結婚してすぐに生まれたのが茜さんでした。

しかし、その頃から夫婦関係はすでに破綻していました。

茜さんが4歳の時、妹が生まれた頃には父親はほとんど、父親の義務を放棄したような生活を送っていました。

父親は大手新聞社に勤めるエリートでしたが、家にお金を入れることはありませんでした。

毎晩のように終電がなくなるまで銀座で飲み歩き、泥酔した状態で20キロ以上離れた自宅までタクシーで帰ってくる。

4歳の茜さんの存在は、物心つく頃には義母のストレスのはけ口になっていました。

父の愚痴を聞かされる。

男がいかにダメな生き物なのかを聞かされる。

自分の父親が、家族にとっていかに憎むべき存在なのかを毎日毎日、延々と聞かされて育ったのです。

小学校に上がる頃になると、父親が酔って暴力を振るう相手が母親だけじゃなく、茜さんにも移っていきました。家庭内DV。

父が帰宅すると、母が茜さん部屋に逃げ込み、茜さんが父親に、

「お母さんをぶたないで!」

と、父に言う。すると、父の手が茜さんに出る。これがパターンになっていきました。

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義母は、茜さんと妹に、父いない間、毎晩のように、

「わたしたちは女3人で生きていかなくてはいけない。あなたたちも男なんかに絶対頼ってはダメだよ。結婚なんて絶対にしたらダメだからね。わたしたちはずっと一緒に手を取り合って生きていかなくてはならないんだから」

そう二人に言い聞かせました。

それでも、子供の頃は、単純に、

「暴力を振るう父は大嫌い。母親をわたしが長女なんだから守らなきゃ」

そう思い込んでいましたが、

中学生くらいの頃から、毎日呪文のように聞かされる母の父への恨み言葉を、

「もうそんな言葉聞きたくない!」

と、言い返すようになりました。

しかし、その度に義母は、

「あなたはわたしの娘なんだし、長女なんだから母親の言葉を聞くのはあなたの義務でしょう!」

そう言われ、

「離婚すればいいじゃない!」

そう言うと、

「あなたたちがいなければとっくに離婚している。あなたたちがいるから離婚せずに我慢してきたのよ。あなたたちのせいなのよ!」

そう言われ、

「自分で働いて、自分で生きる道を探せば今だったらまだなんとかなるよ。私たちも手伝うから離婚してよ!」

そう言うと、

「今、私が離婚したら、あなたたちが就職する時に片親ということで不利になる。だから、あなたたちのためにも私は離婚できない。あなたたちの就職の頃には、私も年を取っていて、仕事が見つけるのがかなり難しくなっているから、今だったら仕事は見つかるのかもしれないけれど、働けないのはあなたたちのためなのよ。とにかくあなたたちが成人するまでは私は離婚しないのが私の務め。」

そう言い返されたそうです。

義母は、祖母の仕打ちから逃れるために東京に出てきたのに、茜さんへの態度や、言う言葉は、祖母のそれとまったく同じでした。

「あなたたちが早く社会に出て、母親に今までの恩を返す。結婚はしてもいいけれど、私みたいに離婚したくても経済的に苦労がかかるからできないということにならないように、絶対にあなたたちは会社員になるの。そうすれば、いつでも離婚したい時に離婚できるから。」

続きは毒親に育てられた娘と母との相互依存関係2夫の悪口を娘に言う母をご覧くださいませ。

(執筆者:心の冷えとりコーチ 風宏)

 

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