実は、私は、正社員8回、派遣、バイトなど実に多様な仕事に就いてきました。この職歴の中で、共通なのは、非正規職員から始まって、正社員になり、パワハラで辞めざるをえなくなるというパターンが多かったのです。
なぜなのでしょうか?
パワハラで傷つき、仕事を失うことに意味があったのでしょうか?
今ならその意味がわかります。
現在の私からみたパワハラ受けまくりの私の闇過去人生を振り返ることで、今、パワハラという人間関係にお悩みの方の心のともしびになればと思って書くことにしました。
パワハラはその中にいるときはとてもつらいものですが、心の毒出しであると思えば、毒を出し切ってしまえば、大きく変化する大チャンスになります。
災難はそのときはいやなものだけど、あとになって大きな気づきも多いのが人生です。
そして、失敗しても、どこかに自分の合う場所が必ずありますし、人生なんとかなるものです。
私の失敗体験から探っていきましょう!
今回のお話は、本当にやりたい仕事をするために忖度でボロボロになった私の仕事闇歴史をお伝えいたします。
美術館学芸員という夢の仕事で知らないうちにモラハラ調教されていた
セクハラという踏み絵を踏んで、真剣に自分のやりたいことと向き合った私は、あきらめずに美術館学芸員の仕事を得ることができました。
1990年代は美術館や博物館ブームでたくさんの施設か開設されたこともあり、学芸員としての職を求めている私には追い風が吹きました。
ついに学芸員として働く場を得ることができたのです!
ただし、私のようななんちゃって学芸員は、公的施設(都や県や市運営)では、採用が難しく、プライベートの館に就職しました。
*なんちゃって学芸員は、美術史を学んでいなかったのに美術館に就職したかったのです。
私は他の芸術科目を選択し、大学院も出ていませんでした。それに英語もあまり話せませんでした。公的施設に就職した学芸員の多くは、専門分野があり、英語に加えてもう一つの言語を話すことができました。今では、私のような異端の経歴の学芸員は採用されないでしょう。1990年代までは、ぎりぎりこんな学歴の人もなかには学芸員として働いていました。
就職して、いろいろな施設の学芸員さんと知り合ったところ、芸術ではなく文学部大卒の学芸員さんも美術館で働いていました。年配の方にはそんな方がたくさんいました。というわけで、晴れて私も、そのなんちゃってのくくりの最後の学芸員となったのです。
就職した美術館のオーナーはワンマンで、白いものでも黒と言わせる人でした。
人の入れ替わりも激しく、長く働く人も少ないので、若い人ばかりでなんでもやることができました。そういう意味では私はここで大きく成長ができたように思います。それに職場には男性が少なかったので、セクハラの問題も心配することもありませんでした。
私は水を得た魚のように生き生きことで働くことができました。
ここで働いた日々は、今でも私にとっては大きな宝物となっています。
ただし… 楽しく働けたのはワンマン社長とうまくやれているときでした。
このワンマン社長は、人の好き嫌いが激しく、少しでも嫌いになると、その人物をゲーム盤のコマを動かすように不本意な部署に移動させました。今では到底許されないことですが、当時はそれがまかり通る時代でした。 実際に、ワンマン社長は広報で華々しく仕事をしていた人を突然、「あいつが目障りだから、人目に触れない総務に移動させろ」と気まぐれに言って、移動させるのです。移動になった本人は、まさかそんなことで移動になったとは思ってもいないので、どこが悪かったのか悩み、辞めていく会社の内部状況を入社してから知りました。
私は社長に気に入られなければ、せっかく得たこの美術館学芸員という仕事を失うかもしれないという恐怖にかられました。
そのために私のしたことは、 忖度 でした。
いつでも社長の顔色をうかがっていました。
社長が好みそうな展覧会の企画をあげたり、白いものでも社長が黒だといえば黒だと同意する人間に10年かけて私は成長していったのです。
ところが、そんなにしてまでやりたかった美術館の仕事でしたが、2000年を機に日本経済がおかしくなっていき、ついに私の働いていた美術館もつぶれてしまいました。
私は身も心もぼろぼろで休息したいと心から願い、そんなときに夫が脳腫瘍だと発覚したこともあり、仕事を辞めることにしました。
冷えとり12年の現在の私からあのときの私にかける言葉としたら、
忖度ばかりしていると、
自分を損なう人のターゲットになり続けるよ
と教えてあげたいです。
この頃の私は正しいことも正しいと言えない環境に10年間居続けた結果、心よりも体がボロボロで、病気ばかりしていました。怒りもたくさんためていて、ちょっとしたことで怒りだす始末でした。
【人生転換のチャンス3】忖度で仕事を得ると体を壊す!
忖度ばかりで自分を見失う→体がぼろぼろ
仕事=お金と割り切り、やりたいことは趣味で実現しよう!
【やりたいこと < 給与】
美術館の仕事はとても楽しかったけれど、薄給でした。
それで体も壊してしまいました。そして、思い知ったのは忖度に必死だった私を美術館がなくなったときに社長はまったく助けてくれませんでした。 当たり前です。 忖度しろとは一言も言われていませんから、社長も私にはなんの思いもなかったことでしょう。
私が勝手に恐怖に狩られて忖度していたのですから...
人に期待しても、人からそれと同様のものを返してもらうということはないということを忖度でボロボロになった私は学んだのです。
しかしながら、その社長は私が辞めた1年後にがんになり、あっという間に亡くなってしまいました。
人の人生とは奇怪なものです。 折しも、社長がなくなった同時期に夫も死に瀕する病気から回復しました。このとき、私は死に対して深く考えるようになり、今後の人生設計を考えようとホメオパシーを学ぶことにしました。
私は一度自分の体を立て直すことにしました。
忖度で死んでしまったらおしまい
忖度しても誰も助けてくれないし、
ただいいように利用されるだけ
ということを学んだのです。
しかしながら、10年ゆっくりと時間をかけて作り上げていった私の忖度能力は、完全に治すことができませんでした。白か黒のワンマン社長に調教されて、他人の顔ばかりみるようになった私の忖度能力は、それを利用しようとする人にスィッチオンされていくことになるのです。
一度身につけてしまった忖度能力はなかなか消えることがなかったのです。
次回はそんな忖度能力のせいで起こったことについてお伝えいたします。