実は、私は、正社員7回、派遣、バイトなど実に多様な仕事に就いてきました。この職歴の中で、共通なのは、非正規職員から始まって、正社員になり、パワハラで辞めざるをえなくなるというパターンが多かったのです。
なぜなのでしょうか?
パワハラで傷つき、仕事を失うことに意味があったのでしょうか?
今ならその意味がわかります。
現在の私からみたパワハラ受けまくりの私の闇過去人生を振り返ることで、今、パワハラという人間関係にお悩みの方の心のともしびになればと思って書くことにしました。
パワハラはその中にいるときはとてもつらいものですが、心の毒出しであると思えば、毒を出し切ってしまえば、大きく変化する大チャンスになります。
災難はそのときはいやなものだけど、あとになって大きな気づきも多いのが人生です。
そして、失敗しても、どこかに自分の合う場所が必ずありますし、人生なんとかなるものです。
私の失敗体験から探っていきましょう!
私の仕事闇歴史のはじまり、はじまり...
売り手市場の就職にどこも雇ってくれるところなし
1990年代の私の就職時には、空前の売り手市場で学生は遊んでいても仕事に就くことができました。
就職できない人はいないと言われていた時代です。
しかし、誰でも就職できる時代に、私はことごとく就職をお断りされて、就職できない状況でした。
私は企業面接が大の苦手でした。父親のような偉そうな役員が、「あなたは、この会社で何ができるか」と尋ねられ、どうせ、何も期待していないくせに何言ってんだ?という態度が出てしまっていたのかもしれません。 生意気な態度でことごとく面接に失敗しました。(父親からDVを受けていたので、父親のような役員にアレルギー反応を起こし、ことごとく面接は失敗しました。)
当時、私が就職しようとして選んだ会社は、 旅行代理店や出版社でした。
- 旅行代理店は、たくさん旅行に行けるから
- 出版社は本が好きだから
という浅はかな理由で選んでいたのです。
そう、そしてとても自分本位でした。
その会社に入って、何をやり、どう会社に貢献できるのかというビジョンはまったくなく、いかに自分がその会社を利用できるのかという態度がありありでした。
そんな人は雇われなくても当然です。
ところが、何社も受けて、落ちていくと自分が全否定されたように思え、必要とされていないと落ち込みました。 プライドばかりが強かったのです。
大学までは、勉強し、自分の努力次第で勝ち取ることができる人生をおくってきたのに、仕事とは運のようなものが人生を左右するのだなと漠然と思いました。
そして、ますます、努力しても報われないなら、努力もしないというスパイラルに落ちていきました。 自分の努力次第で仕事を勝ち取りたいのなら、公務員試験を受ければ良かったのです。今では公務員は安定していて、試験も公平なのに、当時の私はつまらない人生をおくる公務員だけはなりたくないという見えっぱりの大馬鹿者でした。
本当に何様という時代だったのです。
何様時代に生きる、何様な私を欲してくれる会社はもちろんありませんでした。
【人生転換チャンス1】就職できないことが自分を変えた!
自分本位の私をどこも雇ってくれるところはなかった→自己否定して落ち込む
↓
奮起してとにかく就職できるように就活を真剣に始める。
【真剣に取り組むことを知る】
広告代理店にすべりこみ、デザイナーに
一般企業は私には合っていないと思った私は、美術館に就職したいと思うようになりました。当時、どんどん美術館が林立していき、学芸員という職種の就職がわずかながらありました。
大学でとった資格を武器に、学芸員採用試験を受けていくのですが、もちろん狭き門になかなか採用してもらえません。受けては落ち、を繰り返していました。
大学を出たらとりあえず働けと言われていたので、なんとか広告代理店にすべりこみました。そこで働きながらチャンスを狙うことにしたのです。
この広告代理店は代理店とは名ばかりの会社でした。社長、常務、部長、デザイナー、事務の5人だけしかいない会社でした。仕事といえば、お茶出し、毎日の清掃(おじさんたちのう○ちのべっとりついた便器を掃除させられたり、タバコの吸い殻を掃除)で、仕事のメインはそんなことでした。(今ならそれで20万近く給与をもらっていたのですから、まあいいご身分です。その意味はあとで知ることになります。)
それがいやで、デザイナーさんの下についてお仕事をさせてもらいました。デザインといっても、スーパーの袋やクリーニングのビニルのデザインの版下作りがメインでした。(PCがまだ発達していなかった当時は、版下というデザイン指定を手で作っていたのです。)
その仕事は楽しかったのですが、 そのデザイナーさんから、それが本当にやりたい仕事なのかとよく問われました。 そのデザイナーさんは本当はバンドマンになりたいけれど、生きていくためにこの仕事をしているから、やりたい仕事をしたほうがいいと語ってくれました。 そんないい人も会社にいましたが、基本的にこの会社は問題がある人ばかりで、セクハラが横行していました。だから、給与が高かったのかもしれません。
ある日、朝に事務所の机を水拭きしていると、社長がすっと横によってきて、横から胸をワシづかみされたのです。 まだ、セクハラという言葉があまり耳慣れないときでした。
驚いて、やめてくださいと声をあげましたが、社長は「そのために高い給与を払っているんだ」と、言いました。
自分が性の対象にされたことが許せなくて、悔しくて、わんわん泣きました。
私はこの行為は我慢できず、この会社を入社してわずか3ヶ月でやめることにしました。親からは我慢が足りないと言われました。でも、とうてい我慢はできませんでした。
ハラスメント人生の幕開けです。
胸をわしづかみにする人と同じ空気を吸うのも気持ちが悪くて、そこで働けなくなり、逃げるようにして会社を辞めました。
今ならば、ハラスメントで訴えることはできるし、会社にいけないのも適応障害と診断されることでしょう。
しかし...時は20世紀のこと。
セクハラは女子が泣き寝入りするのが常でした。
【人生転換のチャンス2】お金よりもやりたいことをやる!
生まれてはじめてセクハラをうける→ショックで会社にいけなくなる
↓
本当にやりたいことを仕事にする
【やりたいこと > 給与】を選ぶ
このときは私のメンタルはショックで落ち込んでいましたが、本当にやりたいことをやろうと決意し、真剣に転職活動を始めました。学芸員と専門学校事務員の募集を新聞で見つけ、そこの試験を受けて、どちらも受かったので学芸員の道を選ぶことにしたのです。専門学校の方が給与は高かったのですが、本当にやりたかった学芸員の仕事を選びました。
1度目の転職人生です。
今なら、セクハラは許されません。あの社長を訴えることもできたでしょう。でも、その会社は私が辞めて10年後にはなくなってしまっていました。
自分で蒔いた種は、自分で刈り取るものだということをまだこの時にはわからずに、同じ思いをどうにかあの社長に味あわせて復讐してやりたいとそれを糧に生きていました。
冷えとり12年の現在の私からあのときの私にかける言葉としたら、
自分のことばかり考えて選ぶとそういうことになるんだよ
自分の生き方が間違っていたから、そうなったんだよ
と教えてあげたいです。
しかしながら、セクハラのおかげで就きたかった美術館学芸員という職を手に入れることができたのですから、セクハラは人生の大きな転換点となった出来事でした。
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