円満離婚はないと断言しましたが、では後に残るものは憎しみだけなのでしょうか?
人を憎むことはよくない事ですが、時にはそれが生きる糧となる場合もあります。
今日のブログは、夫とその愛人を訴えた妻の話を例に憎しみをどのように昇華すれば、生きる糧になるのかについて考えてみたいと思います。
時には怒りや憎しみが糧となる
怒りや憎しみが、時には糧となる場合があります。
例えば、ある殺人事件が起きた時、被害者の家族はどのような思いで時を過ごすのでしょうか。
「犯人を憎む思いでここまでやってこれた」
ある被害者家族の言葉です。
『罪を憎んで人を憎まず』
と、いう言葉がありますが、わたしは、どちらも正しいと思います。
人を憎み続けることは辛く、しんどい。とても悲しいことですが、時には、それが糧となる場合もある。それが生きる原動力となる場合もあるということです。それを易々と他人がどうして否定できましょう。
大事な人を奪われたというとてつもない苦痛に耐えるためには、誰もが正しいと思えるアプローチだけでは偲べないのです。
これを、家族でもなんでもないわたしたちに置き換えてみます。
わたしたちは悲惨な事件を報道で知ります。被害者が子供だったり若い女性だったりすると、犯人に対する怒りが増幅します。
逮捕された後で、
もし、容疑者が責任能力の有無が問われる立場の人物であり、「責任能力なし」という結論に至ったら、怒りの矛先の何パーセントかは、その判断を下した分析医や裁判所に移る可能性も否定できないのではないでしょうか。
「それは、ひどい!」
と、憤っても、その「ひどい!」をどこに向ければいいのかわからない。
それでも、人は探し続けます。やり場のない「憤り」や「怒り」は、浮遊霊のように行くあてもなく彷徨います。
容疑者が未成年者だったら?
顔写真どころか名前さえ出てこない。怒りはさらにさらに増幅されます。その憤りは一体どこに向かうのでしょうか。
「どこかで解消したい」
特に、最近の傾向として、その矛先の一部が、
容疑者本人だけではなく、容疑者の家族の顔写真や住所、そして、真実と嘘を巧みに織り交ぜた情報をネットに晒すというのが定番になりつつあります。
行き場のなかった「憤り」や「怒り」の浮遊霊たちがゾンビのように、その情報に群がります。
もうそれは、完全に被害者や被害者の家族に当てられた悲しみや同情の気持ちとは、似ても似つかないものに変貌してしまっています。
それでも、人々は、そこに怒りの焦点を当てることで溜飲を下げるのです。
もちろん、このアプローチは間違っています。
間違っているということに、群がる人々も気づいています。
「家族のことを暴くなんてひどい!家族は関係ない」
と、正義を公言しながらも、その情報を目にすることをためらわない。
実際には、やめたくても止められないのです。一度堰を切った情報は、まるで生き物のように次から次へと湧いて出て、迫ってきます。そこから逃げる術はありません。
「もういい。もう知りたくない」
拒もうとしても、一度示した好奇心にまとわりついて離れません。それを腹一杯食べさせられて、本当の意味で、
「もういらない。お腹いっぱいだよ」
そこで、ようやく、「怒り」や「憤り」「憎しみ」から解放される。
みなさんにも思い当たる節があるのではありませんか?
今、書いてきたのは、あくまで自分とは直接関係のない他人への「怒り」や「憤り」「憎しみ」の発生から収束までの一つのパターンに過ぎません。
このように、自分に直接関係ないことですら、人々の心に湧いた「怒り」や「憤り」「憎しみ」は、どこかで浄化されるまで、糧を必要としているのです。
悲しいかな、それが人間です。
糧を必要とすることが悪いと、言っているのではありません。
人間は、それくらい、糧を必要としている。
もっとも心と体に良い糧は、沢山あります。「憎しみ」」ではなく「慈しみ」や「勇気」を糧に転換できれば、それに越したことはありません。その中でもっとも素敵な糧は、もちろん”愛”です。
誰もが、この”愛”だけを糧に生きていきたいと考えています。
しかし、「憎しみ」が時には糧になるのも、紛れもない事実。
それくらいストレスがこの社会に蔓延しているのです。
人の不幸を嘆き、悲しみつつ、それを利用して、自分のストレスのはけ口とする。
「人の不幸は蜜の味」
人間には、常に、このような二面性が潜んでいます。
離婚の二面性
「離婚」の原動力は、愛か?憎しみか?
前回、「円満離婚」はない!と、書きました。
あるのは離婚のみです。
その離婚に向かう原動力は、夫に対する怒りや憎しみかもしれない。不倫相手の女性かもしれません。
それを糧とすることは、間違ってはいません。
「こんな恨みつらみをいつまでもグチグチ言ってるわたしは、なんて下品で情けないんだろう。こんなことを思うのはやめて、子供のために離婚をしないで頑張ろう」
この言葉にも、しっかり二面性が現れています。
「グチグチ言うわたし」もわたしだし、それを「下品で情けない」と、感じるわたしもわたし。
「こんなことを思うのはやめて、子供のために離婚しないで頑張ろう」
「母親として我慢しなければならない」と、切実にそう願う自分と、本音は、
「自分のために離婚したい」
のに、そこに嘘をついて、「我慢」という選択をしようとする自分。
どちらも、正しいし、どちらも一生懸命考えて、決断をしようとする自分です。
ただ、この中でわたしは一つだけ思うことがあります。
この判断が正しいとか間違っているとか、それはその人によって千差万別ですから、何も言えませんが、「グチグチ」で「下品で情けない」自分を否定ばかりしていては、よくないと思うのです。
それもあなたの一部なのですから。
それを、しっかり自分で認めてあげてください。
そして、グチグチで下品な原因が何なのか?自分をそうさせているものは何か?それをしっかり把握してください。
悪いのは、グチグチしているあなたではなく、その原因を作っているものです。
グチグチしている自分に腹をたてるのではなく、その原因を作っているものに腹をたてるべきなのです。
その原因を解決に導くためには、どうすればいいのか?を、考えるのです。
そして、
その原因がどんな手を尽くしても解決不可能と判断した場合、それでも、子供のために離婚しないほうがいいの?と、自分に問うてください。
沸き起こる怒りをどうしても抑えることができないのであれば、
怒りをただの怒りとして増幅させるのでなく、どうせなら、それを原動力にしようではありませんか。
不倫相手の女性を訴える妻
こういう話があります。
ある女性の夫は不倫をしていました。
しかし、その女性はそのことを知りません。そして、ある時、夫から離婚を切り出されました。
「もう一度、一人になって人生をやり直したい。やりたいことがあるんだ。だから、離婚してほしい」
と。
女性は、夫の気持ちを尊重し離婚に合意します。いわゆる「円満離婚」です。
男性は、離婚を機に不倫相手の女性とも別れて、一人で新しい生活を始めました。しかし、それから数年後、共通の友人から離婚当時、夫には愛人がいたことを聞かされます。彼女は元夫に聞きました。元夫は素直に認めました。しかし、あくまで「離婚原因と不倫女性は関係ない」と、彼は言います。
しかし、彼女はその言葉を信じることができません。
彼女は夫を愛していたし、夫のことを思って、
「彼のやりたいことをやらせてあげたい」
と、彼という男を買っていたから離婚に応じたのです。
それなのに、愛人がいた?ずっとわたしを騙していた?
彼女は、結婚生活全てを裏切られた気持ちがしました。
そこで彼女が取った行動は、愛人だった女性を訴えることでした。
元夫は訴えません。元夫は、
「どうして俺を訴えないんだ?」
そう聞きました。彼女はこう答えました。
「愛人のことを調べたの。彼女は今、結婚して子供がいる。とても幸せな結婚生活を送ってるみたい。だからよ」
「確かに不倫をしていたのは謝るよ。でも、お前との離婚と彼女は全然関係ないんだよ」
「でも、不倫をしていたのは事実だよね。あなたは私を騙して、好きなことをして、好きなことを続けたいから離婚を申し出た。あまりに自分勝手すぎる」
「だったら俺を訴えればいいじゃないか!」
「それじゃあ、私の腹が収まらない。なんで私だけがこんな目に合わないといけないの?あなたもあの女も幸せに暮らしているのに、どうして私だけがこんな目にあってるの?あの女に罪を償わせるのがいけないことなの?」
だからといって、裁判での彼女の勝ち目はほとんどありませんでした。不倫は事実ですが、離婚の直接的原因が不倫であるということを実証できないからです。
彼女も勝ち目がないことはわかっていました。
裁判を起こすだけでも大変なお金がかかります。時間もかかるし、ものすごいストレスがかかります。それでも、彼女は、
「私が前に進むためにはこうするしかなかった」
そう言います。
裁判を起こしたことによって、元愛人の不倫がご主人にも知られることとなりました。ご主人から元夫へ連絡が入ったそうです。
裁判では、元夫が法廷へ現れ、離婚と不倫は関係ないと証言をしたそうです。
元愛人女性も証言台に立ちました。
裁判を起こして、自分の知らなかった二人の関係を白日の元に晒し、真実を知ることが目的だったのです。
もとより、裁判結果など、どうでもよかったのです。
もっと言えば、復讐だったのかもしれません。
裁判は示談で終わり、彼女は慰謝料を取ることはできませんでした。
それでも、構わない。
「このような形でしか、清算できないと思った。これでもう、彼に会いたいとは一生思わないと思う」
みなさんは、この話をどのように捉えるでしょうか?
わたしは、正直、怖いと思いました。
怖いけれど、彼女の気持ちもわかります。元夫や元愛人女性は自業自得なのかもしれませんが、同情する気持ちがないわけでもありません。
ただ、彼女の行動は責められません。
彼女は、彼女の中で、「離婚」に決着をつけるために、このような手段を取るしかないと結論付けたのです。怒りを糧にしたのです。そこから先は躊躇がなかった。
つまり、その時点で前を向いたのです。
真実を知る方法が裁判しかなかったからこのような行動に出た。
新しい第一歩を踏み出すためには、この方法を選んだ。
このことを批判する人もいたかもしれません。
「もういいじゃない。過去のことなんだから。いつまでもこだわっていたら前に進めないよ。そんなことやめなよ」
そう言われたかもしれない。
「その通りよ。前にすすめない。前に進むために、訴えるんだよ」
下品だろうがなんだろうが、そんな自分を認めて「怒り」を糧として、全責任を負って、足を一歩踏み出したのです。
周りにどう移ろうが関係ない。彼女は過去を清算し、前に進んだ。
そういうことなのです。
このアプローチが正しいか、正しくないか。それは、その出来事を彼女が後になって笑って話せるかどうか。
「ああいうことがあったけど、おかげで今の私がある」
と、笑って人に話せるかどうか?
では、ないでしょうか。
離婚は失敗じゃない
「離婚」は、失敗ではありません。
離婚をするということは、新しい第一歩を踏み出したということです。
離婚してしまった夫婦の結婚は失敗だったのか?
いいえ。失敗ではありません。
愛し合った結果が結婚という行動に結びついたのですから、大成功です。
結婚生活は失敗だった?
いいえ。夫婦として共に暮らした時間、妊娠、子育て、そして、離婚。そのどれも、何一つ欠けることなく失敗など一つもないのです。
人生に失敗はありません。
人は常に今を生きています。
過去を思い出し、未来を想像することはできても、生きることはできません。
生きているのは常に、”今”、この時です。
それなのに、人は過去の苦い記憶を振り返り、悲しかったこと、苦しかったことをわざわざ思い出し、記憶の再生を何度も何度も重ねて、わざわざ今に蘇らせようとします。
「わたしの人生は失敗続き」
口癖のように口にする人は、その状態が一番心地よいだけなのです。
過去の記憶の再生を今に当てはめ、未来にまではめ込んで、
「お先真っ暗」
平気でそれを口にできる人は、それが一番、しっくりくると思い込んでいるのです。
「何度やっても、何をやってもうまくいかなかったら誰だってそうなるよ」
「誰だって」とは、具体的に誰のことを言うのですか?
その「誰だって」は誰のことでもありません。それを口癖のように言っている自分自身のことです。
その瞬間、人は、
「失敗した!」
と、思います。時間が経っても、あの時のことを、失敗として記憶しています。
「でも、あの時の失敗があったから今の自分がある。あの時の経験があるから自分は成長できた」
そう言える人間になりたいと思いませんか?
と、いうか、そういう人間になるために、「失敗」は目の前に現れるのです。
事実、そう言える人にとって、「失敗」は「失敗」ではありません。
「過去のご褒美」です。
失敗を糧にできる人は、
現在進行形の失敗をそうやすやすと他人には口にできないものです。
逆に、失敗を糧にできない人は、過去の栄光を何度も口にします。
あれ?自分に思い当たる節はありませんか?
だから、成功している人ほどたくさん失敗しているし、過去の辛い失敗を笑って人に話せます。
辛い経験を乗り越えた人ほど、のちに幸福な人生を送っているのです。
大切なことは、
失敗と感じた後の生き方です。
どう生きるか?
失敗をどう捉えるか?
離婚後は、どう生きるか?
の、問いに答えた結果です。
そこから先、どう生きるかによって、人生なんて簡単に塗り替えられるのですから。
失敗したこと、辛いことは、忘れようとしてもそう簡単に忘れられるものではありません。辛い過去は放っておいても勝手に追いかけてきます。
考えてないつもりでも、意識してないつもりでも、常に頭のどこかにこびりついているのが「辛い経験」なのです。
そんなものを、わざわざこちらから意識してあげる必要は全くない。
だから、無視することが一番なんです。
「失敗をきちんと反省しない奴はダメだ!反省しないから同じ失敗を繰り返すんだ」
そういう意見が大半かもしれませんが、わたしはそうではないと思います。
反省しても、同じ失敗を繰り返さないようにしようと心に決めても、同じ失敗をします。
人間は、記憶の再生を何度も何度も繰り返します。
過去の経験の再生で生きています。失敗もクセのようなもので、やっぱり気をつけていても繰り返すのです。
ただ、その失敗が経験となり、記憶となり、糧となって、その対処法なり、消化方法なりを自然にできるようになるのが人間です。
これは、誰でもそうです。
怠け者だってそうです。
その失敗が辛ければ辛いほど、「二度とそんな失敗はしたくない」
そう考えるのが人間です。
でも、結局、同じ失敗をまたしてしまう。でも、それは、前回と全く同じということは絶対にないのです。
他人には全く同じに見えているかもしれないけれど、あなた自身は必ず気づくはずです。
決して同じではなかったと。
「また同じ失敗をしてしまった〜」
と、悔やんでも、時間が経つと気づくはずです。
なぜなら、それが生きるということだからです。
幸いにも私は離婚を経験していません。
しんどいだろうな〜。苦しいだろうな〜。頑張っているな〜。乗り越えて欲しいな〜。
今、離婚を考えている方が、
「わたしは一歩前に踏み出した」
そう思えることを願っています。
辛い離婚を経験された方が、
「あの時は本当に辛かったけどね。おかげで今は幸せだよ」
そう笑って人に話せる日が来ることを心から願っています。
(執筆者:心の冷えとりコーチ 風宏)