冷えとり健康法でも心の毒は体の毒の5000倍と言われています。
心が健康ならば、体もすこやかになれますが、心に何かがあると確実に体に影響が現れるほど心の影響は強いものです。
この記事は、心をすこやかにしたいという女性にむけて書いたものです。
どうぞご覧くださいませ。
まずは、自分の”心”を知る。
”心”って、なんでしょう?
- 人が感じたり、考えたりする働き。精神。(例)心を入れかえる。
- 気持ち。思い。(例)心を打つ。
- 考え。意志。(例)心を決める。
- 意味。わけ。おもむき。(例)歌の心。
- まごころ。(例)心をこめたプレゼント。
出典:『例解学習 国語辞典 第九版 金田一京助編』(小学館)
これは、娘が使っている辞書『例解学習 国語辞典 第九版 金田一京助編』(小学館)に書かれていた”心”の意味です。
これが、ネットのgoo辞書(ネット辞書)では、上記の他に、
偽りや飾りのない本当の気持ち。本心。身についた感じ方や考え方の傾向。性分。性根。
おもしろくない思い。また、分け隔てする気持ち。
出典:goo辞書(ネット辞書)
なんていうのも、ありました。
広辞苑においては、このように書いてあります。
人間の精神作用のもとになるもの。
人間の精神の作用そのもの。
知識・感情・意思の総体。
おもわく。
気持ち。
思いやり、情け。
出典:広辞苑
これを見て、どのようにお感じになりましたか?
小学生が、使う辞書に使われている意味や例題では、心について、シンプルで前向きな言葉ばかりが並べられています。
正直、小学生が、「心を入れかえる」とか、「心を打つ」なんて説明を読んで、しっかり腑に落ちるほどの人生経験を積んでいるとは思えないので、理解ができるのか、はなはだ疑問ですが、
「心って言葉はなんだか素敵だな〜」
って、感じはしてきますよね。
それに対し、後の二つには、
「偽りや飾りのない」「おもしろくない思い」「分け隔てする気持ち」「おもわく」「情け」
なんて言葉が増えたりして、上記の反対語のような言葉が並びます。そりゃそうだよ。綺麗事だけじゃないよ、人間の胸の内なんて…。
これ、おもしろくないですか?
子供の頃は美しい心を持っていたのに、成長するに従って…。なんか、人生ですよね?
子供の心は美しいものです。
まだ、本能に寄っている部分が強いだけ表裏がない。
でも、成長に従って、意地悪な気持ちが生まれ、嫉妬心が生まれてきて、自分を卑下する気持ちも出て、劣等感に打ちのめされる。
逆に、自分が他のお友達より、頭が良かったり、家が金持ちだったりすると、優越感や差別感情も生まれてくるでしょう。
劣等感と優越感の差が、「いじめ」を生みます。
でも、そのときは、まだ、それがいけないことだとわかっていても、コントロールすることはできません。できないから、止まらない。
「心をいれかえる」ことをしなければいけないけれど、そのためには、
「偽りや飾りのある胸の内」を理解し、「おもしろくない思い」や「分け隔てする気持ち」をしっかり自覚して、その毒を外に出さないと無理です。
人間の心は、
ある程度、成長しないと、コントロールどころか自覚すらできないのです。
その間に、
”心の毒”
は、どんどんどんどん溜まっていくのです。
心の毒ってなに?
では、「心の毒」とは、なんでしょう?
奥さんが連載している「冷えとりブログ」でも、「心の毒」というフレーズが頻繁に出て来ます。
基本的には、それと同じことですが、わたしの言う「心の毒」とは、
ずっと心に溜め込んでいるイライラや、わだかまりや、ストレス。もちろん、それもそうですが、
「あなたが前に進めない原因になっている心」
のことを言います。
イライラや、わだかまりや、ストレスは、まだ、自覚症状があります。自分でも、はっきり認識できているので、イライラ解消法や、ストレスの発散方法は、みなさんお持ちだと思います。
でも、あなたの心の奥底に巣食っている心の毒は、自分ですら、気付いてないことのほうが多いのです。
たとえば、
小さい頃や、成長の段階で、心に傷を負ってしまったけれど、それを癒す方法を知らないで過ごしているうちに、どこかの引き出しに入れたまま忘れてしまったこと。
小さい頃の嫌な思い出や若い頃に体験した失敗や恥ずかしい経験が臆病な心や羞恥心を生み、無意識に自分の決断を鈍らせ、行動範囲を狭めていること。
今でも、あなたを悩ますママ友とのトラブルもそうです。職場でのパワハラ、セクハラ。そして、マタハラや家族間の問題。現在進行形のトラブルでも、解決の糸口がまったく見えなかったり、これからも続いていくことがわかっていたりすると、それは、イライラだけの出来事ではなくなり、心の毒となって、意識化の深いところにどんどん沈んでいってしまうのです。
そうなってしまっても、どこかの引き出しに仕舞っておくことのできる人は、まだ救いがあります。意識下では、完全に忘れてしまうことができるのですから。潜在意識には深くその傷が刻まれていても、顕在意識が忘れる能力を機能できていれば、表面上は普通に暮らすことはできます。
「なにをやってもうまくいかないな〜」
「自分がこんなに飽きっぽいのはなぜだろう?」
「良いアイデアは思いつくのに、どうしても次の一歩に踏み出せないのはどうして?」
その原因が、どこかの引き出しにしまい込んだまま忘れてしまった「心の毒」にあったとしても、生活に支障をきたすことはありません。
悩みつつ、不満を抱えつつも、日常の生活を送る分には何の問題もない。
言い換えれば、それが、
「嫌なこととか辛いことはあるけど、我慢しないとやっていけないしね〜。あまり考えないようにしてる」
そういう普通の人たちなのです。
誰もが、「心の毒」をどこかの引き出しにしまい込んだまま生きているのです。
嫁姑問題やママ友のトラブルなど、現在進行形の悩みも、”心の引き出し”に空きがあれば、そこにしまっておくことができます。
しかし、それも、コップに入れた水と同じこと。タンクに入れた汚染水と同じ。溜まりきってしまったら、溢れ出てきますよね。そうなると、こぼれ出た水を拭き取るかしか、方法はありません。
でも、こぼれ出た水を拭き取っても、水は溢れるギリギリのところに溜まったままです。ちょっとの刺激だけで、また、すぐに溢れてきます。
そんな自転車操業をやっていては、心がもたなくなる。コップだって始終、満杯の状態だったら、水圧に耐えかねて、いつか壊れてしまうかもしれない。
だから、拭き取るだけでは、根本的な解決にはなりません。
心の器
コップを大きなものに変えられれば、溢れ出ることはなくなります。
でも、コップそのものを大きくすることは、簡単ではありません。
なぜなら、その”コップの大きさこそが、
「あの人、器が大きいよね。彼の器は小さいけど」
の、”器”だからです。
”器”とは、”心の器”のことです。
あなたが、思う”器”の大きな人というのは、どういう人を思い浮かべますか?
自分の不満や愚痴を決して口にせず、やらなければならないことを黙々とやり続けることのできる我慢強い人。
周囲を丸ごと包み込むような大らかな雰囲気を持っている人。
他人の悩みも愚痴も丸ごと、受け止めてくれる人。
どんな時にでも矢面に立ってくれる人。
ただ、そこにいるだけでその場の雰囲気を変えられる人。
今にも、器から水が溢れ出そうな人や器が壊れてしまいそうな人が、ポンと器を変えて、上記のような人に変わるなんてことは、残念ながらできません。
でも、努力をすれば、誰だって変わることはできるのです。
時間は確かにかかるかもしれないけれど、やり方さえわかれば、誰だって、”器の大きな人”になれる。
ただ、そのやり方がわからないのです。
では、どうやれば、器の大きな人間になれるのか?
心の毒は誰だって溜まる
「だったら、心の毒が溜まらないようにすればいいんじゃないの?」
もちろん、その通りですが、残念ながら、生きている限り、心の毒は溜まっていくのです。
人間の生活は、人と人との関係でできています。好きな人だけでなく、嫌いな人との接触も、皆、平等に訪れます。
楽しいことも辛いことも経験します。
生きているということは、”心の毒”を溜めつづけることを意味します。
僧侶は世を捨て、現世から離れ、修行に励む。それでも、煩悩に駆られ、悟りを開くことはままならないのです。
だから、”心の毒を溜めないように生きる”と、いうのは、現実的ではありまえん。
心の毒は溜まるのです。
元ヤンキースの松井秀喜さんは、中学2年の頃から、一度も不満や愚痴を口にしたことはないそうです。彼の友人も、松井さんが友達の悪口やからかうようなことを言っている姿を見たことは一度もないそうです。
中学生が不満や愚痴を口にしないというのは、ちょっと信じ難い話ですが、彼は、子供の頃から身体の大きさと比例して、もともと器の大きな大人物だったのかもしれません。
でも、そんな松井選手にだって心の毒は溜まります。
ヤンキースで順風満帆の日々を送り、キャリアハイも望めるほど絶好調だった2006年に試合中に手首を骨折。以来、数々の怪我に悩まされ、回復後も、調子は完全に戻っているにもかかわらず、試合に使ってもらえないという日々が続きます。それでも、彼は、不満を一切、口にせず、自分の出番のために黙々と練習を続けていたそうです。
彼にとって、怪我をしたことによって、守備機会を奪われることが一番の苦痛でした。野手は守って、打つ。そう信じていました。しかし、ヤンキースの首脳陣は彼から守備機会を奪いました。彼に与えられた仕事はDH。指名打者と言って、守備はせず、打つことだけが仕事です。
しかし、彼は不満を言いません。もちろん、不満はあったと思います。でも、口にはしません。ただ黙々と打撃練習をする。ひたすら、打ち続ける。
求められていないことをアピールするのではなく、得意分野をひたすら伸ばす。そうやって、彼は”心の毒を浄化していった”のです。
その結果が、2009年のワールドシリーズでのMVPです。
松井さんのくらいの器の大きな人になると、溜まった心の毒をただ吐き出すのではなく、それを内部に溜め込んだまま浄化する自浄能力にも優れているのです。
”心の毒”を分析し、浄化する方法を黙々と繰り返す。
人間は焦るし、すぐに結果を求めたがります。野球選手にとって、一つの怪我が一生を棒に振ることになってしまいます。リハビリの間に自分の居場所がなくなってしまうかもしれない。
それでも焦らず、やらなければならないことを黙々とやり続ける。やり続ければ、結果が必ずついてくる。
それが、松井さんの”心の毒”を浄化する方法なのだと思います。
心の毒が溜まる前に
松井さんくらい、器の大きな人物になれば、溜まった”心の毒”を浄化するという離れ業を行うことができますが、これも、わたしのような普通の人間には無理です。
生きている限り、心の毒は溜まります。溜まりますが、浄化する装置や能力は持っていません。器も小さい。
だったら、どうすればよいのか?
手始めに、できることはこれしかありません。
- 溜まる前に出す。
- 溜まる前に捨てる。
です。
池で、ボートに乗っている姿を想像してください。突如、空が黒い雲で覆われ、ものすごく激しい雨が降ってきました。
岸に戻る前にボートの中は水浸しになってしまい、底に水が溜まってきました。
どうしますか?
ボートにいっぱいに溜まってから水をかき出しますか?
5センチくらい溜まっただけで慌ててかき出しますよね。
それと、同じです。
自分を沈める運命にある水はかき出さなくてはなりません。
でも、この場合は、少し溜まっただけでも目で見てわかります。
心の場合は、気づかないうちに”毒”が溜まっています。その量がいったいどれくらいなのか、自分ではわかりません。このままだと、ある日、突然、溢れるかもしれません。
溢れることはなくても、あなたの前進を阻んでいるものが、”心の毒”であれば、それを取り除かなくてはなりません。
冷えとり風に言えば、
心の毒を放置していれば、病気を引き起こすこともあるそうです。
むしろ、心の毒の方が、食べ物や冷えから来る毒より、何十倍も、何千倍も身体に悪影響を及ぼすそうです。
だから、
心の毒が溜まる前に、出して、捨てる必要があるのです。
自分の心の毒ってなに?
わたしは、
「じゃあ、自分の心の毒っていったいなんだろう?」
そう、思って、心の毒だしに取り組んだわけではありません。
今となって、
「ああ、これが、心の毒だしだったんだ…」
と、気づくことができたから、わかりやすく記号化するために「心の毒」という言葉を使っているに過ぎないのです。
では、なぜ、わたしは気づくことができて、心の毒を溜まる前に出して捨てることができるようになったのか?
それを、お話ししたいと思います。
わたしはずっと長い間、自分に不満がありました。
サラリーマンを辞めて、念願だったフリーライターになって、自分一人の力で生きていくと決心したにもかかわらず、何年やっても、この仕事に自信が持てない自分に対してです。
一緒に仕事をさせていただいている編集者やカメラマンの方々から、
「風の取材能力はすごいよ!」
とか、
「今回の記事はものすごく面白かった。次回も楽しみだよ」
そう言われても、自分では常に、
「そうかな〜? こんなんで面白いのかな〜? 本当にそう思っているのかな? ただのお世辞?」
と、感じ、素直に喜べない。素直に「ありがとうございます!」
と、言えない自分がいました。
と、同時に、
「おれはフリーライターになったものの、なにを取材したいんだ? 自分の最終目標はなんなんだ?」
そこをずっと探していました。
しかし、見つからないのです。
フリーライターになって、与えられた仕事は選ばずなんでもやって、そこそこ実力をつけて、それなりに仕事のできるライターとして認めてもらっても、
「おれは、いったいどこに向かっているのだ?」
常に、自分にそう問いかけていました。
「いつまで、ライターやってるの?」
そう編集者に聞かれるたびに、
「わたしって、どういう方向が向いていると思います?」
そう逆に尋ねる日々。
「本、書かないの?風さんだったら、絶対に面白いものが書けると思うよ」
そう言われると、
「それは、小説ですか? コラムですか? エッセイですか?」
そう聞き返す日々。
そして、自分に対する疑問は、いつしか、
「おれはなにが書きたいんだ?」
から、
「おれはなにを書かなければならないんだ?」
に、なってしまっていました。
ここはどこ?わたしは誰?
でも、始終、朝から晩までそんなことばかり考えているわけではありません。仕事は日々、忙しい。家族が食べていくには十分の収入もある。
そういう悩みも、忙しい時には、心の引き出しに閉まって忘れる術も覚えました。
でも、時間はすぐに経ってしまいます。
あっという間に20代は過ぎ去り、30代も瞬きするようなスピードで終わってしまいました。
「人間は歳をとれば器が大きくなる」
とか、
「歳をとれば、本当にやりたいことをいつまにかやっている」
なんてことは、まったくなくて、わたしという人間の本質は何一つ変わってはいませんでした。
40歳になった時、一つの大きな決心をしました。
「いくら考えても、自分のやりたいことなんてわからないんだから、フリーライターとしてできる仕事を3年間、がむしゃらにやってみよう!」
そして、
「それまでやっていた趣味や他の楽しみを全て捨てて、とにかく、仕事だけをやってやろう!そうすれば、その後の生き方の指針になるようなことが何か一つでも見つかるだろう」
そう思ったのです。
そして、やりました。3年間。とにかくがむしゃらに。結果もそれなりに残しました。この3年間が、一番、取材数をこなしたし、記事も残しました。社会的に反響の大きかった記事もたくさん出しました。
しかし、
3年経って、ふと、振り返ったとき、わたしはこう思ってしまったのです。
「ここどこ?わたしは誰?」
このお話は次回に続きます。
風宏の心の冷えとりコーチング「心をさらけ出せ!1」あなたは飛躍する
(執筆者:心の冷えとりコーチ 風宏)