子供は見えないものが見える生き物です。
うちの子供の幼い時には、部屋の隅の方を見て、誰かと会話していたり、写真に謎の物体が写ってしまったり、いろいろなことがありました。
今考えると、あれは何かのサインだったのかも...
私には霊感というものは、いっさいありませんが、そんな不思議な力を見せてくれた子供の幼少期のお話です。
お母さん、子供っていろいろな力を持っているものなんです!
クリスタルチルドレン
「音ちゃんってクリスタルチルドレンなんですね」
赤ちゃんのとき、ランチタイムのお寿司屋さんで、偶然出会った知人にそう言われたことを突然、思い出した。
その知人は、いわゆるスピリチュアルな女性で、オーラの色とか、気が頭の周りの湯気のようなものとして見えたり、人の身体の一部に触れると、身体がどういう状態であるとかわかってしまうらしい。ただ、特に悪い気とか、身体の状態のよくない人に触れると、その影響を受けてしまうという。悪い状態を引き受けてしまうというか。まあ、憑依(ひょうい)のようなものですね。だから、何ヶ月に1回は、船に乗ってイルカやクジラに会いに行ったり、パワースポットを巡ったりして悪い気を浄化しているのだとか。
そんな彼女にそう言われて、初めてインディゴやレインボー、クリスタルといったスピリチュアルの世界での子供の呼び名みたいなのを知ったのだけれど、正直、よくわからない。
わたしがスピリチュアルな人間ではないので、理屈は理解できても、実感としてよくわからない。
じゃあクリスタルチルドレンってなんだ?
ネットで調べてみると、ひと言でいうと、
愛と調和をもたらす使者
とある。
子供はみんなそうなんじゃない? そういう感想を抱く。
特徴として、音ちゃんに当てはまるものをざっと箇条書きにすると、
いじめられても仕返ししようとは思わない(いじめる側の気持ちがまったく理解できないみたい)。
アレルギー体質(アトピーだしね)。
一人遊びが好き(まあ、一人っ子だし)。
穏やかで優しい(間違いない)。
驚くほど純粋で正直(うそをついたのを見たことない)。
争いごとが嫌い(人と比較する、人に勝ちたいという感覚がまったくない)。
アクション、パニック、戦争映画が大嫌い(本編上映前の劇場はどんな映画の予告をするかわからないので、予告上映が終わらないと劇場に入れない)。
ダンスが好き(踊りながら歩く)。
時間にルーズ(ちなみに片付けもできない)。
気持ちの切り替えが早い(どんなに叱られても、こいつアホかと疑いたくなるほどすぐに立ち直る)。
クリスタルが大好き(小学1年生のとき、誕生プレゼントにクリスタルが欲しいというので新宿紀伊国屋書店1階の鉱物の店に買いに行った)。
芸術性が高い(絵のクオリティは人並みだけど、発想や色使いが素晴らしいと思う)。
動物や植物と会話する(昨日もクモや花束の中の美しい花と話してた)。
人の心を癒す力がある(子供はみんなそうじゃないですか)。
などなど、他にも当てはまる例がたくさんある。
……でも、これって、差こそあれ、子供だったら誰でもそうじゃないか?
素直にそんな疑問がわく。
子供を見ていると、大人の理屈や常識では理解できないことが起きる。そんなの日常茶飯事だ。
だから、気がつくと、
「それが子供だからね〜」
と、ちょっとしたことでは驚かなくなる。
たとえば、まだハイハイしていた赤ちゃんのころ、音ちゃんは保育園では暇さえあれば壁に向かって話をし、空や天井に向かって手を振っていた。
「音ちゃんには何か見えているんですかね〜」
と、新しい先生に変わるたびに聞かれたけれど、親にしてみてば、それが当たり前の光景だったので、
「他の子はやらないんですか?」
と、逆に聞いていた。お祭りや旅行に行けば、やっぱり一人で木や壁と戯れていた。一度、デジカメを忘れたので使い捨てカメラで箱根の旅館の部屋でなんとなく写真を撮ったら、その晩、音ちゃんが高熱を出したので慌てて帰路についた。写真を現像するとガラガラを持った赤ちゃんが一緒に写っていたことがあって、さすがにこれには冷たいものが背中に走ったけれど、
「箱根だし、赤ちゃんだから、こういうこともあるのかもね〜」
と、特別おかしなことだとは思わなかった。
子供は見えないものが見える生き物
3歳くらいだったか、一緒に歩いていて、音ちゃんが突然青い空に向かって手を振ったので、
「なに?どうした?」
そう聞くと、
「おばあちゃんが手を振ってるの〜。ほら、あそこ」
そう言うけれど、わたしにはなにも見えない。
「おばあちゃんってどんなおばあちゃん?」
そう聞くと、右手の手のひらを身体の正面に掲げ、左手を受けるように手のひらを上に向けた。
「こうやってる」
「それ、手を振ってんじゃないね。それ、仏様だね」
「そうなの?」
「その人がこっち見てるの?」
「うん。みてるよ。はーい。わかったー!」
「なにがわかった?」
「えっ?ずーっと元気でねーって」
「おばあちゃんがそう言ったの?」
「そうだよ。聞こえないの?」
「パパには聞こえないな〜」
もしやと思い、帰宅後、実家の母に電話をしたら、わたしの祖母の命日だった。
「まあ、子供だからね〜。あるあるじゃないの?」
「まあ…、そうだろうね〜」
夫婦でそういうことだろうと気持ちを納得させた。
でもこれって、わたしが実家の母に電話をしようと思ったから祖母の命日がわかったのであって、あのままスルーしていたら、この事実はわからないままだったのだ。だから、
「どんな子供でもきっとそうなんだよ。子供の力を侮るなかれなのさ」
要は、親が気づくか気づかないか、たったそれだけの違いなのだ。
お伊勢様にて
4歳のとき、伊勢神宮に初めて家族3人で参拝に言った時、内宮で特別参拝をさせていただいた。音ちゃんは最初からわたしの太ももに強くしがみついて、厳しい表情をしていた。
「どうしたの?」
そう聞くと、
「あの女の人、誰?」
そう聞いてきた。
「あの女の人って?」
「真ん中に立ってこっちを見てるきれいな女の人」
真ん中とは、ご神殿とわたしたちが立つ直線上のちょうど真ん中。もちろん誰も立ってはいけない場所。当然、わたしにも奥さんにも何も見えない。
「どんな格好をしてる?」
「白いサラサラの着物をきて、髪の毛を耳のところで丸めてるの。じーっとこっち見てるよ」
「なんか言ってる?」
「よく来てくれましたね。ありがとうって」
そして、参拝を終え、出る時、音ちゃんは神殿に向かって小さい声で「バイバ〜イ」と言いながら手を振った。
それが、3年連続で6歳まで続いた。一度は、外宮の駐車場から神殿へ向かって参道を歩いていると、
「あ、あのお姉さんの声だ!『待ってますよ〜。早く来てくださいね〜』って。待ってくれてるみたいだよ」
と、言う。だから、そこからわたしたちは走った。神殿に着くと、
「お姉さんいたいた。来たよ〜」
そう言って手を振る。
「お姉さんも笑ってる」
このときは、正直、
「この子は本当に守られているんだな…」
と。
でも、子供は誰だって、しっかり守られるべき存在なのだ。そう思うと、これもやっぱり不思議な話じゃない。
風立ちぬ
宮崎駿監督の『風立ちぬ』が公開されたとき、埼玉の航空公園へ展覧会を観に行った。会場入り口天井には大きな二重翼の飛行機が吊るされてあった。会場に入るなり、音ちゃんは、
「あ、お姉さん!お姉さ〜ん!」
と、大声で叫びながら手を振って、
「パパ!あの飛行機に音ちゃんも乗りたい!」
と、言う。あ〜、久しぶりだね〜この感じ。もうないと思ってたのに…。
「音ちゃん、あの飛行機には乗れないよ」
「なんで?だってお姉さんが…あれ?いない。あれあれ?いなくなっちゃった」
「お姉さん乗ってたの?」
「そうだよ。手を振ってたもん。ほんとだよ。ウソついてないよ」
「ウソついてるなんて思ってないよ。どんな格好してた?」
「飛行機に乗る格好。帽子かぶってサングラスみたいの頭につけて」
「へ〜。じゃあ音ちゃんになにか言いたかったのかもね。飛行機って気持ちいいんだよとか」
「そうかな〜。でも本当にいたんだよ。おかしいな〜」
2年前のことだから、このとき音ちゃんは8歳。巧みなウソもつこうと思ったらつける歳だ。
この歳になると、自分でも、「なんか変だ…」と、感じるようになったみたいで、自分の見たものに疑いの気持ちが宿ってしまったようなのだ。
「もう見なくなってしまうのかな…」
そう感じた。
彼女のこういう発言を目の当たりにしたのがこのときが最後でした。
サイン
あとで気がついたことだけど、
それは、同時に、彼女がいじめられた最後の夏でもありました。
3歳のとき、1人の女の子に誰も見ていないところでつねられるという意地悪をされて、そのことを誰にも言えず、
「なんでつねるんだろう?」
と、聞いてくるので、「今度つねられたらちゃんと先生に言いな?」そう言うと、
「言ってもいいの?」
「いいよ」
で、何日かして、
「先生に言ったら、その子『音ちゃんが叩くから仕返ししただけ』ってウソをつくの。どうしてそんなウソをつくんだろう。でも、謝りなさいって言われたから謝っちゃった。でもまたそのあとでつねられちゃった」
仏さまを見たのは、そんな時期だった。
8歳の夏、「死ね」と毎日言われていじめられていたとき、気分転換に行ったのが航空公園だった。
気がつけば、音ちゃんは、心に暗い影が広がりそうになったとき、いつもそういうことを言っていたように思う。
そのことに気がついたとき、これは、なんだろうか?音ちゃんが、現実逃避のために幻覚を見ていたのだろうか?それとも、守護霊のようなものが音ちゃんを救い出そうとしたのだろうか?それとも、何かのサインなのだろうか?
もし、サインなのだとしたら、いじめが先ではなくて、幻覚が先だとある程度、これから起きる不測の事態を想定できるから有り難いのにな〜っ思ったりしたが、んな都合の良いことがあるはずもない。
でも、この整合性はなんだろう?
まあ、子供だしね〜。
やっぱり、それで片付けるしかない。
以来、8歳の出来事を最後に音ちゃんは、そういうものがまったく見えなくなってしまった。見えていたことすら覚えていない。
「死ね」と言われたことがあまりに強烈で、そのとき、
「自分自身がもっと強くならなければならないんだ」
と、強く決心したことで、彼女は強くなった。
それは、親にとってはとっても喜ばしいことだけど、スピリチュアル的には、
天使的な愛と慈愛だけに満ちた生き物ではなくなってしまったということなのかもしれない。
そう思った。
でも、最近、実はそうではないのではないか?
そう思い始めている。
音ちゃんは、強くなったことによって、その果たすべき役割が変わってきてるのではないか?
そう感じられるようになったのだ。
不思議な共通点
音ちゃんが今まで仲良くなったお友達には、不思議な共通点がある。偶然では片付けられない細かい共通点。
保育園で、言葉を使えるようになると、”おともだち”という関係が生まれるが、最初におともだちになった女の子は、金髪でブルーアイの外国人。お父さんがカナダ人でお母さんが香港人。二人とも片言の日本語も話せない。唯一通じる日本語は、女の子の本当につたない言葉のみ。
だから、言葉でコミュニケーションを取っている感じがまったくしない。
しかし、2011年に東日本大震災が起きて、逃げるようにカナダに帰ってしまって、突然、音ちゃんのお友達は目の前から消えてしまった。
その一月後、一人の女の子が入園してきた。音ちゃんはすぐに意気投合して、まるで双子の姉妹のように仲良くなる。
その子は母子家庭で、在日朝鮮人の女の子。もちろん、日本生まれで日本育ちなのだが、朝鮮名もあって、母親からの強い影響で愛国の意識がしっかりしている女の子。そういう意味では、生活習慣や考え方は、他の子とはやはりどこか違う。独特の雰囲気を醸し出している女の子だ。
小学1年生の時も、二人は同じクラスだった。しかし、あまりに二人が仲良くしすぎて他の子と仲良くしようとしないということで、何度か先生に「もっと他の子とも遊んでくれるといいのんですけどね」と、言われるほどだった。
しかし、2年生になり、クラスが別々になると、二人の関係も次第に疎遠になっていく。2年生の一年間は広く浅くいろんなお友達と遊ぶようになったが、3年生になって、一人の女の子が転校してくると、また、その子としか遊ばなくなった。
中国人の女の子。両親も初来日で、3歳年上のお姉さんも誰一人として日本語を話せない。しかし、音ちゃんは初対面からその子と意気投合し、彼女の話す日本語はすべて音ちゃんが元になっていると過言ではないくらい、その子につきっきりで過ごした。
そして、つい先日の保護者面談のとき、
「彼女がこんなに早く日本の学校での生活に慣れることができたのは本当に音さんのおかげだと思います。本当に感謝しています。ただ、他の子ともできれば遊んでほしいと思います」
そう言われた。
そのことを音ちゃんに伝えたが、
「他の子とも遊んでるよ。でも、おともだちは彼女一人でいいかな」
「どうして?」
「だって、3人以上になったらどうやって二人と話していいかわからなくなるから」
「彼女は他の子と遊ばないの?」
「遊ぶよ」
「いやじゃないの?」
「いやだけど、仕方ないよね」
「いやなんだね」
「うん。いやだよ」
わたしたち夫婦は、なんだか少しだけホッとした。彼女にもちゃんと嫉妬の感情があるんだ、と。普通でよかった、と。
やっぱり、正直どこかにあるんです。この子は、普通の子とはちょっと違うのかもしれない。と、いう不安が…。
親の不安の押し付け
親であるからには、子供への不安は尽きません。
と、いうより、
”子供への不安”を、粗探ししている。
それが、親といっても過言ではない。
本当は、そういう関係性はよくない。でも、どうしても、なにがなんでも不安な要素を探そうとする。それはなぜだろう?
子供が、自分に似ているからです。
しかも、
自分の気に入らない部分。自分が劣等感を感じている部分。自分が人より劣っていると感じて、普段は自分に目をつむっている部分が似ているから。
それを、遺伝と言う。
もちろん、誇れる部分も似ている。
自分のことを嫌いな部分よりも好きな部分が多い人にとっては、好きな部分のほうがより多く似ていると感じるだろう。
自分のことを嫌いな部分のほうが多い人にとっては、嫌いな部分のほうがより多く似ていると感じるだろう。
いずれにしても、嫌いな部分ばかりが目立ってしまう。そういうものなのだ。
だから、その嫌いな部分を見せつけられると、ついつい、感情的になってしまう。
嫌いな部分とはなんだろうか?
自分が社会に適合できなかった部分です。だから、自分も親からよくその部分を叱られていた。自分ができなかった。だから、子供ができない部分もよくわかっている。だから、
なんでできないんだ!
と、なってしまう。
ひどいですよね、親って。
人と違うことを、どうして、ダメだと決めつけてしまうのだろう?
(執筆者:心の冷えとりコーチ 風宏)
続きのお話は、お母さん!子供の力を素直に受け入れてみては?2自分に似ているから腹がたつをご覧ください。
クリスタルチルドレンをもっと知りたい方におすすめは、この書籍です。