まだパワハラが堂々と横行していた時代。新入社員だったわたしも、教育という名の下にパワハラを受けました。そのことがきっかけでわたしは会社員には向いていないと自覚し、フリーに至るのですが...。
教育という名の下のパワハラはパワハラされる側に、成長しようという自覚がなければ全く無意味なものです。なぜってわたしはなぜこんな目にあうのか、全くわかっていなかったのですから...。
今日の記事は新入社員の受けるパワハラについて考えてみたいと思います。
家庭でのパワハラ
わたしは、福岡県出身です。
父は大分県出身。系図によると平安末期に壇ノ浦で滅亡した平家一門とともに九州に逃れてきた家の末裔(まつえい)ということらしく、800年来の生粋の九州男児です。
九州男児の家では、とにかく長男が大事。父はとにもかくにも、わたしより2つ上の兄をかわいがりました。わたしと兄が喧嘩をすれば、わたしに父からのお決まりの言葉が飛びます。
「弟なんやから、兄ちゃんのいうことを聞かんか!」「兄ちゃんに歯向かうやつがおるか!」
明らかに兄が悪くても、叱られるのはわたしです。服や靴は必ず兄のお下がり。これはまあいい。わたしの誕生日のケーキを兄が半分食べても兄が怒られることはありません。すき焼きのお肉は先に兄が手をつけます。量が同じということもまずありません。兄の方が多い。
兄が勉強しているときにわたしがテレビを点けたら、ものすごい雷が落ちますが、わたしの勉強中に兄がテレビを点けても父は何も言いません。たまに母が「不公平だ」と、言ってくれましたが、
「長男やから当たり前やろが!」
と、キレます。そのうち母までが、
「お兄ちゃんの言うことは聞かんと」
と、言いだしました。「なんでいっつも兄ちゃんのほうばっかり正しいって言うん?ぼくのほうが正しいこともあるよ」と、抗議しても、「お兄ちゃんの言うことを聞くのが一番ええの!」と、言うだけでした。
数々の兄との喧嘩の中で、どうしても忘れられない出来事があります。
小学生のとき、わたしと兄で、『巨泉のクイズダービー』(一般人の解答者が、芸能人の解答者に金額をかけて競うという番組)という番組を見ていて、いつものようにわたしと兄で賭けて遊んでいました。わたしは、どうしても勝ちたくて1問目「はらたいらに1000点」2問目「はらたいらに1000点」と、安全パイばかりに賭けていました。3問目「はらたいら1000点」のところで、兄が、激怒し、
「おまえいい加減にせい!もっと他に賭けんかい!」
と、いちゃもんをつけてきたのです。(本当にくだらないのですが、これが小学生です。大目にみてくださいね)
それに反発すると、兄がわたしに蹴りを入れてきたのでわたしも応戦。部屋の障子戸を突き破るほどの大げんかになりました。母は、泣いて家を出て行って、近くの親戚の家に避難。喧嘩の途中で父親が帰ってきて、「お母さんを泣かすのは最低やぞ!」そう、怒鳴り散らすなり、一方的にわたしばかりを殴り始めました。
「なんでおればっかり!」
わたしは泣きながら抗議をしましたが、
「おまえが兄ちゃんに歯向かうのが悪いんやろが!!」
そう言って、最後は腹に蹴りを入れられて障子戸ごと一緒に吹っ飛びました。
このとき、
「あ〜、この人、理由なんてどうでもいいんだ。おれが次男というだけで気にいらないんだ…」
”理不尽”という言葉は知らなかったけれど、理不尽ということを初めて知った最初の出来事だと思います。ちなみに父も次男。長男は大分の実家を継ぎましたが、父は家を出ました。
もちろん”パワハラ”という言葉は知らなかったけれど、これが、パワハラということを初めて経験した最初の出来事だと思います。
世の中は理不尽なことばかり。パワハラと、どう向かい合っていくか。
わたしにとっての抵抗は、”映画”でした。とにかく、映画。とくにオードリーヘプバーンと西部劇が好きで、いつも映画の世界に逃げていました。西部劇は時代劇と同じでストーリーはいたって簡単。勧善懲悪。(かんぜんちょうあく)理不尽のかけらもありません。
兄は映画にはまったく興味がありません。父が帰ってきたら、ニュースか、野球にチャンネルを変えられます。だから、なおさら、映画を見ることができる自分一人だけの瞬間だけが自分の世界に没頭できたのです。しかし、その映画も、父から奪われます。
中学生になると、
「週に2本しか見ちゃいかん」
と、父が宣言したのです。その理由は、「高校受験に役に立たん」。わたしは、言葉で言ってもダメだと思い、父に便箋15枚ほどの抗議文を書きました。しかし、父からの反応は一切なく、その後、週2すら見せてもらえなくなり、月2になります。このときも、涙を流し抵抗しますが、言葉でも腕力でも父には全然敵わない。
わたしは、お金持ちのビデオデッキを持っている友達に頼んで、見たい映画を録画してもらい、日曜日になると観に行って、カセットテープに音だけを録音して、それを自分の部屋で勉強をしているふりをしてイアホンをつけて何度も聞いていました。それを、また、兄が父にチクるのです。
次に思いついたわたしの抵抗は、お芝居でした。大好きな映画を見せてもらえないなら、自分で作ろう。自分で演じてやろう。
しかし、わたしの通う中学校には演劇部がありません。わたしはお小遣いを月刊誌『ロードショー』『スクリーン』にあて、映画のあらすじを読んで、録音した映画の声を聞きながら夢想にふけっていました。その役に自分がなりきって。(ぼくだったらこういうストーリーにするけどな〜)なんて考えながら。
そして、高校演劇部で開花!
家庭での全てのストレスのはけ口として演劇にどハマりし、一切の勉強をしなくなります。高校2年間で父に、
「もう高校生やから黙っとったけど、演劇やるにも限度ちゅうもんがあるやろが!」
そう怒鳴られながら殴られたことが2度ありました。
でも、全然、平気でした。
なぜなら、演劇さえ続けられたら、殴られても蹴られてもなんとも思わなかったからです。
演劇は、父から逃げ込める場所、なんかではありません。
演劇は、わたしの全てでした。
演劇と出会ってから、わたしは、理不尽を理不尽とは思わなくなったのです。
ただ、わたしは、この家庭に育ったおかげで、気づいたことがありました。
それは、
一番わたしのことを知っているはずの親でさえ、兄でさえ、理由にならない理由で、わたしの自由を奪うんだ。母は母で、父の怒りが怖くて、助けてはくれない。家の中でさえこうなんだ。だったら、世の中、もっともっと不公平なことはたくさんあるに違いない。
父のおかげで、兄のおかげで、わたしは、社会の理不尽さを身を持って体験していたのです。
このとき、覚悟はすでにできていました。
社会人になってのパワハラ
大学卒業後、わたしは1990年にとある企業グループの不動産会社に入社しました。
時は、バブル景気末期。入社試験を受けさえすれば、必ずどこかの内定がもらえる。そんな時代でした。
高校、大学と演劇に明け暮れ、上京当初は、俳優や映画監督になる夢を抱いていましたが、すぐに挫折。お芝居は趣味と割り切って、ある時期から、『お金を稼ぐ』ということに興味が移っていったのです。
なぜなら、時はバブル。大学の同期には高級外車を乗り回す、いわゆるヤンエグ(ヤングエグゼグティブ、今でいうセレブです)がウジャウジャいて、暇さえされば合コン、ダンパ(ダンスパーティーのこと)。家賃3万円6畳一間に2つ違いの大嫌いな兄と住んでいたわたしは、お芝居にかけるお金もままならない生活をしていたので、そんな世界とは当然無縁です。(芝居をやる学生はみんながみんなお金とは無縁でしたけど)贅沢をしたいとは思わなかったけど、とにかくお金の心配をしなくてもいいくらいのお金は欲しかった。
演劇の先輩の紹介で大学2年生のときに週3日、焼肉店でのアルバイトを始めたのが、お金を稼ぐ始まりでした。
時給は1200円。夕方5時から午前0時まで。まかない有り。閉店後は、お酒飲み放題、お客さんが残したお肉をストックしておいて、それを焼いてつまみにするのです。時はバブル。松坂牛が飛ぶように売れて、ひと口ふた口つけただけでほとんど残したままのお客だらけでしたから、松坂牛をたらふく食べて、浴びるようにお酒を飲んで、電車の始発に合わせて店を出る。
大学4年のときには、お芝居のことなどコロッと忘れて、週5日働きました。夕方4時から深夜1時まで働いて時給1500円。月に25万円ほどになっていましたから、学生の分際でかなり調子に乗った生活をしていました。焼肉屋のバイトを終えたあとで、一人で別の高級焼肉店へ行って、松坂牛を食べて2万円…みたいな。
「お金稼ぐなんて簡単じゃん」
まあ、22歳のクソ生意気な若造が世の中を舐めくさっていたわけです。
就職活動なんてまったくしません。
就職活動しなくても就職できましたから。世の中舐めくさってましたから。
給料がいい!ってだけで、企業グループの会社を受けることに。同期のツテを探しました。そのツテは不動産会社にいました。
と、いっても、やることは、本当に、同期のツテで大学OBを訪問するだけです。試験という試験すら受けていません。
不動産会社の先輩と一度お酒を共にして、数日後、「会社に遊びにおいで」と、言われ、なんとなく伺うと、取締役の偉い人が待っていて、「うちに来る気ある?」と、聞かれ、小脳だけで「はい!」と返事。
その直後、先輩が、宅建(宅地建物取引主任者)の資格試験問題集を3冊ドンと机の上に置いて、
「これ、しっかり勉強してね。試験受からないと仕事できないからね」
そこで初めて、
「ここ不動産の会社なんですね」
と、気がついた。
「そう。だから宅建の資格ないと、やばいよ。えっ?マジで知らなかったの?きみ、案外大物だね〜」
これ、ホントの話。
なんにも考えてなくても就職できました。1990年当時は。
そして、同期は約150名。気合の入ったやつが多かった。入社前に避暑地で3泊4日の合宿があって、毎朝やたら大きな声を出す練習をさせたれたり、運動会みたいなことやったり、キャンプファイヤーを囲んで歌合戦みたいなこともやったり…。正直、この会社のノリなんなんだ?と、終始、戸惑うことしかなかったのですが、
「ぼく思い切り楽しんじゃってま〜す!」
と、いうふりをして、なんとかノリ遅れないように必死でした。でも、入社当日には、完全に、
(自分にはこういうノリ無理かも…)
と、思いつつも、せっかく就職できたのだからと、
(大丈夫。社会人になれば、きっと慣れてくるはず)
そう、自分に言い聞かせて、自分に嘘をついて、思い切り、ノリのいいキャラを演じる決意までして、入社したのです。
でも、ダメでした。毎朝、朝礼で今日の目標を発表し、最後に、「エイエイオー!」と、拳を振り上げるのです。
夜は、ほぼ毎日、飲み会です。お酒が好きで、お酒が強いほうだと思っていましたが、当時のサラリーマンの飲み方は凄まじかった…。わたしは全然ついていけませんでした。
それ以前に、仕事についていけないのです。
そもそも、わたしの能力がついていけない。周りは上司も先輩もほんとうに優秀な方ばかり。仕事が優秀な人はお酒の飲み方も遊び方も一流でした。
わたしは、すべてにおいて、ワンランクもツーランクも劣っていました。
日に日に、自分への劣等感が強くなり、仕事の意欲が薄れていきます。
にもかかわらず、たまたま自分が担当した案件がうまくいって、新人の中でいの一番で大型契約にこぎつけて、社長賞をもらってしまって、「あらら。この程度だったらおれでもやっていけるかも…」と、勘違いしてしまって、でも、ちょっと時間が経つと、また、すぐに「やっぱりついていけない…」の繰り返し。
当時、この会社には”自己啓発”期間なるものがあって、社員が一人ずつ会議室に呼ばれて、そこに上司や同僚がたくさんいて、一斉に口撃されるというセミナーが行われていました。
具体的にどういうことかというと、
一人の社員を全員で、一斉口撃するのです。その社員のどこが悪いのか、よくないのか、仕事の面からプライベート、性格、ビジュアルの面まで含めて、すべての欠点を言いまくるのです。言われた社員は、その一つ一つの言葉について反論する機会が与えられます。その反論した言葉について、また、全員から口撃されます。それについてまた反論する。それを延々と繰り返すのです。
で、そのうち、どうなるか?
口撃されている社員は、泣き崩れるのです。そして、「ごめんなさいごめんなさい」。泣きながら謝罪するのです。まるで、催眠術にかかったように、何かに取り憑かれたように、皆が皆、そうなってしまうのです。鼻水も垂れ流して、まるで、幼児のように誰もが泣き続けるのです。
すると、みんなが一斉に拍手をして、
「よくがんばった!」「えらかった」「きみはすごい!」「立派だった」と、褒めちぎる。
そして、最後に、泣き崩れた社員に宣言をさせます。今後、自分はこの会社にどのように貢献していくのか?
すると、社員は、例外なく、涙で潤んだ子犬のような目で、満面の笑みでこう答えるのです。
「昨日までのわたしはダメな人間でした。でも、みなさんのおかげで生まれ変わることができました。気持ちを改めて、この会社のために全身全霊で働きます」
一人一人の声を聞きながら、わたしが抱いた感想は、
「こいつらみんな頭おかしくなったのかな〜」
でした。
わたしは、このセミナーの意味がまったくわからず、外から来てもらった講師の人の説明をいくら聞いても、理解できません。だから、部屋に入ってきた社員を、思いつくままに口撃しなければならないのですが、わたしにはできませんでした。
だから、わたしの順番になっても、みんなの言葉のどれ一つをとっても、わたしの心に響いてはこないのです。
わたしは仕事のできない社員でした。だから、口撃も他の社員と比較にならないくらいすごかった。もう完全に人格否定どころか人間失格レベルです。
でも、わたしに言わせれば、いちいち納得なので、まったく反論できません。でも、反論しろと言う。でも、反論できないのです。だから、議論が進みません。一人あたりだいたい1時間半くらいで落ちるのですが、わたしは3時間くらいかかっても落ちません。
だって、自分のダメな部分をわたしは、誰よりもよく知っていたから。そもそもプライドもない。
なぜなら、
仕事に真面目に取り組んでいないから。
はなっから、真剣に、一生懸命に生きていない人間ですから、なにを言われても心に響かないのです。
最後は、講師の方から、
「あなたは、本当の意味で救いのない人かもしれない。もう一度、自分の人生を真面目に振り返ったほうがいい」
そう言われました。
わたしは、このとき、講師の言っている意味が全然わかりません。なぜなら、
真剣に生きていなかったから
だから、救われるはずなんてないのです。
先輩からの執拗ないじめ(パワハラ)の始まり
わたしが入社する直前の3月、銀行が突然「総量規制」を宣言してバブルは弾けるわけですが、わたしの会社にその影響がではじめたのが、入社1年目の秋でした。
人事異動で、全社員、営業になって、自社が保有している全てのマンション、土地を売りさばくことになったのです。わたしもそれまで土地買収の部署にいたのですが、マンションのモデルルームに常駐して、来客したお客様に買っていただくための営業をしなければなりません。そうしないと、会社が潰れてしまうのです。
社員は皆、必死です。銀行がお金を貸してくれないので、保有しているマンションを一刻でも早く売らないと借金がどんどん膨らんでいきます。まだ、マンションの立っていない更地の土地は、そのままで売れれば問題ないのですが、工事が始まっている物件はさっさと完成させてさっさと売らないと日々、借金がかさむのです。
そのためには、価格を下げなければなりません。工期も短くしなければなりません。結果、見えないところのクオリティを下げなければなりません。当然、価格が下がる分、質も下がります。
でも、当時の異常な高値を考えると、来客したお客さんは、
「最近やすくなったなー」
と、感心しています。雑誌やCMも、
「いまがお買い得」
と、宣伝しています。でも、わたしは、いまがお買い得ではないことを知っています。価格は待てば待つほど下がるのです。不動産業界の人間はみんなそのことを知っていますが、それがバレるとマンションは売れません。行き着く先は、自分たちが路頭に迷う。
だから、みんな血眼になって売ります。
でも、わたしは、売ることができませんでした。
もともと、能力がなかったのだから、売りたくても売れなかっただけかもしれませんが、そもそも、真剣に生きていませんでしたから、
つぶれても路頭に迷ってもいいか…。
そういう思いもありました。だから、来客したお客さんには、同僚や上司が近くにいない場面では、
「いま、買うと必ず損をします。価格も安く見えるカラクリがたくさんあって、全然安くありません。買うべきではありません」
そう言い続けてました。当然、売れません。それでも、わたしを信用しないお客さんが4名ほど買ってしましたが…。
そんなわたしだから、当然、上司も先輩も「もっと頑張れ!」「大丈夫だよ。ぜったいに売れるよ」と、激励してくれます。でも、一人だけ、まったく違う先輩がいました。東大卒のエリートA先輩でした。Aさんだけは、わたしのことを応援したりしません。
「だって、おまえにはそんな能力ないもんな〜」「そもそも売る気ないんだろう」「バカはいくら努力してもバカだから努力するだけ時間の無駄だよ」
いま思うと、Aさんは、わたしという人間を完全に見抜いていたのかもしれません。
彼の言うことは、いちいち事実。なにひとつ言い返せないのです。だから、腹も立ちません。ただ、Aさんがそういうことを言うたびにわたしをかばってくれる先輩がいて、その先輩のために、(自分も少しは頑張らねば…)と、思ったり、(Aさんを見返してやる)と、その時だけ本当に悔しがったり。
そのうち、Aさんはことある毎にわたしをお酒に誘うようになり、わたしのことを、
「おい!飲み会担当!」
と、呼ぶようになりました。
「おまえに仕事をする資格はない。仕事をするだけみんなに迷惑がかかる。就業中に寝てていい。おれが許す。夜のために力を蓄えておけ」
いつも、そう言われます。反論できませんでした。事実でしたから。
でも、正直、この言葉にはさすがのわたしでも傷つきました。
傷つく時というのは、
自分でもうすうす気づいているんだけど、それは、自分の最も忌み嫌う部分で、普段、意識の奥底に隠してあるような恥部の部分に気づかれた時、そして、そのことを言われた時、そのことを皆にばらされた時です。
自分の目の前で白日のもとに晒された時です。
わたしの中の、なにかが、この言葉によって、確実に壊れていきました。
その宣言どおり、夜になると必ず連れまわされ、最低3軒はハシゴし、わたしはグデングデンになって、翌朝はゲロを吐きながら会社に行く。そして、「営業に行ってきます」と、嘘をついて、公園で寝る。モデルルームで寝るという感じになっていきます。
もちろん、お酒代は自腹ですから、お金も底をつきます。逃げたくても、わたしが終わる時間を見計らうようにAさんは現れてわたしの椅子の後ろで、待ち構えます。お酒を飲んでいる間は、Aさんは、いかに自分が優秀で上司を含めた周りがバカで、その中でも飛び抜けたバカがわたしだと言い続けるのです。
「どうせ辞めるんだろ」「おまえみたいなバカと同僚だと、おれまでバカだと思われるだろ。早く辞めろよ」「おまえ、よく生きていて恥ずかしいって思わないな」
仕事が終電間際までかかることがあっても、帰してはくれません。そんなときは、会社の近くのカプセルホテルに泊まります。
だんだん、自分の思考と精神がおかしくなっている自覚を覚えるようになります。
無意識のときに、「どうやったらAを貶めることができるだろうか…」などと、考えるようになったのです。
やばい、このままだと、本当になにかやってしまいそうだ…。
そこまで、追い込まれていきました。
そして、その日がやってきました。
支社あげての打ち上げの日。一次会が終わって外に出た瞬間、わたしの上司が、わたしのところに来てこう言ってくれました。
「おまえ、連日Aの飲みに付き合わされているんだって?きついだろう。あいつ飲み方めちゃくちゃだからな。今日はもう帰れ。Aにはおれのほうから言っとくから」
そう言ってくれたのです。わたしは、その瞬間、耐えていたものが一挙に崩れ、涙が溢れ出てきました。
「ありがとうございます。ありがとうございます」
そう挨拶して、みんなの輪から離れ、一人駅に向かって歩いていると、後ろから声がしたのです。
「おい!飲み会担当!ふざけんな。逃げんじゃねえよ。飲み行くぞ!」
後ろから二の腕を掴まれた瞬間でした。
その先の記憶が飛び、気が付いたら、わたしは数名の先輩から羽交い締めにされていました。その先には尻餅をついているAがいました。
わたしは、無理矢理タクシーに押し込まれ、同じ寮に住む同期とともに帰路についたのでした。
この一件が、わたしに、
もうサラリーマンは辞めよう
と、決心させてくれた出来事となりました。
お話は続きます。
風宏の心のコーチングはこちらもご覧くださいませ。
風 宏(Kaze Hiroshi)
心の冷えとりコーチ
冷えとり歴13年目。靴下6枚ばき、半身浴20分。最近お酒がやめられるように変化した2015年2月4日より、女性のための問題を解決するブログを開始。2016年9月GCS認定プロフェショナルコーチ資格取得。女性のための心の冷えとりコーチング講座も開催。