私は子供のためにもママ友と仲良くすべきだと思ってきました。
親のせいで子供が仲間はずれになるかもしれないと思い込んでいたのです。
ママ友の世界を全く知らず、誇張されたメディアからの情報だけで...。
公園デビューは怖いですか?うちでは奥さんが公園デビューを拒否したので私がしましたが、あっけないものでした。
そう、私はマスコミで働きながら、そのマスコミ戦法を知っているのにも関わらずメディアの情報だけを鵜呑みにしていたのです。
今日の記事は、公園デビューが怖いお母さんに向けて、うちの奥さんのようにデビューをしなかったお母さんや、社交的だけれど闇のあるお母さんなどの例をあげて、誰もが問題を抱えているということをお伝えしたいと思います。
子供のためにママ友と仲良くしなければならない
なぜ、わたしは、
「音のためにもママ友と仲良くすべきだ」
と、主張したのか?ママ友の世界なんて噂でしか聞いたことないのに。実際は、どのようなものなのか何もわかってないのに。
原因は、はっきりしていました。
「親のせいで、音に友達ができなかったらどうしよう?」
「子供が友達を作るためには、保育園でママ友を作って、公園デビューして、親同士が仲良くならなければならない」
と、いう思い込みがあったからです。
では、なぜ、そういう思い込みができてしまったのでしょう?
まず、一つに、高齢になってからできた子供だというのがあると思います。
音のお友達のパパやママはみなさん、わたしや茜さんより10歳前後若い。一番若いママとの年齢差は18歳。
その時点で、ジェネレーションギャップをすでに感じています。親の育った時代が違います。子育てに関する考え方も違うでしょう。相容れない何かを感じてしまっていました。もちろん、思い込みです。
「こんな若いママたちと友達になれるのか?」
今になって思えば、「無理して友達になる必要ないじゃん」「それ以前に、友達になれるかも?と思う方がどうかしている」と、思えるのですが、当時は、「友達にならなくてはいけない」そう思い込んでいましたから、年齢差の現実を知って、なおさらプレッシャーを感じていたのです。
そして、もう一つが、
わたしは職業柄、事件事故報道に精通しています。特に、自分に子供ができてからというもの、母子に関する悲しい報道に過剰なほどに敏感になっていきました。虐待やいじめ、育児ノイローゼによる自殺。テレビや新聞では報道できないほどのせい惨な事実に触れることも多々あります。
気がつくと、わたしの中で、ママ友の世界はモンスターの世界になっていました。
茜さんは、
「公園デビューしない」
と、言ったら絶対にしない人なので、わたしが公園に連れて行くしかない。
(公園で子供が遊んでいる横で立ち話をするママたちの輪が、わたしのようなおっさんを受け入れてくれるはずがない。親を受け入れてくれないのだから、子供も受け入れてもらえないのではないか?でも、音を連れて行かなくてはいけない。そうしないと、公園で遊ぶお友達ができなくなるのだから)
思い込み思い込み思い込み思い込み…。
完全に思い込みの波に飲み込まれている状態でした。
差別化を生む言葉
実際に公園に連れて行ってみると、全くの杞憂。
わたしの悩んでいたことなんて、なーんの意味もない。
はて?俺は一体何を悩んでいたのだ?
と、いうことに気づきます。
よちよち歩きを始めたばかりの音を初めて公園に連れて行った時のこと。
それは、平日の午前中でした。音の病み上がり、保育園にはまだ連れて行けないけれど、熱も下がって比較的元気だった時、常連幼児たちで溢れかえり、砂場の横のベンチで井戸端会議をするママたちが大勢いる公園に行ったのです。
自転車で向かい、公園の入り口で音を下ろすと、私が自転車を止めている間に、音はまっすぐ、幼児たちがたくさんいる砂場に歩いていきます。そのまま、幼児たちの輪に入り、あっという間に一緒に遊び始めました。その様子をちょっと距離を置いて眺めていると、井戸端会議の中の一人のママがニコニコ笑顔で話しかけてきました。
「ここ、初めてですか?」
「あ、はい。そうなんです。毎日、来られているんですか?」
「たまに。お嬢さん、何ヶ月ですか?」
そんな感じで自然に会話が始まって、急にそのママは立ち上がって、
「ごめんなさい。子供があっちに走って行っちゃった。じゃあ、失礼します」
そう言って、自然に会話が終わる。
まだ、音は砂場で遊んでいる。すると、また、他のママが、
「あのお嬢さんのお父さんですか?お嬢さんすごく人懐こいですね」
「そうですか?人懐こいですか?」
「あまり他の子とは遊ばないうちの子の相手をしてくれて助かってます」
そうやって、また自然と会話が始まる。
気がつけば、
「◯◯ちゃん、そろそろお昼だから、お家に帰ろっか?」
そう言って、井戸端会議のママたちも立ち上がり、時計を見てみると、あっという間に時間が経っていました。
わたしの”公園デビュー”は、無事に事なきを得たのでした。
「わたしの公園デビュー」?
そうでした。
”公園デビュー”を果たしたのは、”わたし”ではありませんね。
”音”ですよね。
でも、気分は、すっかり”わたし”でした。
つまり、本来、公園は、子供の遊ぶ場であり、親はただの付き添い。
にも、かかわらず、「子供のため」なんて言いながら、わたしの気持ちは、
「わたし、大丈夫か?」
「ママたちに無視されたら、わたし、大丈夫か?」
と、子供の事なんてそっちのけで、自分の事ばかり心配していたのです。
ここまで、公園デビューを意識してしまう背景には、
「公園デビュー」なる言葉の影響もあるのではないか?
そう思うのです。
そもそも「公園デビュー」という言葉は、1990年代半ばにマスコミが生み出した言葉だそうです。
子供が初めて公園で遊ぶことを意味すると同時に、母親が公園コミュニティーに初めて顔を出すという意味も含まれての言葉だということで、やはり、「ママ友」を意識させる初期の言葉だったのではないかということです。
この言葉が出来た原因に、
その当時、「公園内におけるママ友のコミュニティー」なるものが確実に存在し、その一員にならなければ、母親だけでなく子供まで仲間はずれにされるという現状があったのは、確かなのでしょう。
確かなのでしょうが、マスコミは、あたかも、
「それがすべて」「時代のトレンド」
でもあるがごとく報じ、
「公園を牛耳る一部のママたちの決めたルールに従わなければ、仲間はずれにされる。今時のママは、子供を公園に連れて行くだけでも容易ではない」
的な文言が溢れました。ネットが普及していない、あの当時のママたちは誰もが、子育てについて、雑誌やワイドショーでの偏った情報を頼りに、
「そうなの?そうなのか…」
と、思い込んだ。
誰もが思い込んだら、現実もそうなっていきます。
これ、ブームが仕掛けられる過程と同じですよね。
もちろん、今でも、事実、そういう世界は少なからずあるでしょう。
その世界で苦しい選択を迫られているママはたくさんおられるでしょう。
でも、現実は、その世界だけではない。
フォーカスを当てるのは、子供?ママ?
わたしが公園で、いつも井戸端会議をやっていると思っていたママたちは、ママ友でもなんでもなくて、たまたまその日、その公園で子供を遊ばせているママたちでした。
そこに、おっさんであるわたしが現れても、変な顔をするママは一人もいませんでした。
「変な顔をされるに決まっている」
と、わたしが勝手に思い込んでいただけで、誰もが、「子供のママ」でした。
「ママ友」という一つの集団ではなく、一人一人が、「子供のママ」でした。
ママたちは、今日がわたしと音の「公園デビュー」だということを、誰も知りません。そもそも、デビューだろうが、2回目だろうが、そんなの関係ないのですから。みんな、自分の子供のことで一生懸命なのだから。
「ママ友」という括りに該当する同じ保育園や幼稚園や小学校のママを、
「ママ友にすべきかどうか?」
で、見るのではなく、
常に自分と1対1の関係で捉えること。
一度、ここに、しっかりフォーカスを当ててみてください。
さて、今までママ友だと思って接していたママ友は、本当にあなたにとって必要な人ですか?
例えば、
こんなママはどうですか?
園の行事や父母会など、たくさんのママが集まる場では、ものすごく社交的で、いつもニコニコ優しい笑顔で話しかけてくれる。5〜6人でランチに行ったことも何度かある。自分は好感を抱いている。
でも、ご近所で、たまたま1対1の状態でばったり会った時は、どういうわけかよそよそしい。愛想もママたちがたくさんいる時とはぜんぜん違う。
それが一度や二度じゃない。ふと気がついてから思い出してみると、いつもそうだった気がする。あれ?もしかして、わたし、それほど好かれてない?それとも、どこかで、わたし、嫌われるようなことした?
そのように考え始めると、いわゆる、
思考の罠に嵌ります。
答えの出ない質問を自分にぶつけ、答えが出ないから、想像で補おうとするのです。その想像は、大抵の場合、悪い想像です。
答えの出ない質問に対しては、人は、”最悪の事態”を想定する習性があるので、自分にとって、一番好ましくない想像を無理やり作り出してしまうのです。
この場合の、”最悪の事態”とは、「ママ友の仲間はずれ」「ママ友のいじめ」です。
「もしかしたら、わたしは最初からママ友じゃなかったのかもしれない」
「仲間はずれにされてしまったのかもしれない」
そう思い始めると、必ず態度に出てしまうものです。他のママ友に必ず、あなたの思考は伝染します。
そんな時、あなたは自分一人に対し、複数のママ友が立ちはだかるように見えてしまうでしょう。
でも、相手は5、6人が固まった一つのモンスターなんかでは、決してありませんよね。
5、6人集まれば大きな大きなモンスターに見えてしまうかもしれませんが、一人一人の顔をよく見てみると、やっぱり、子供のママなのです。
人間関係は常に一人一人です。
一人一人の相手に対しての、あなたのあり方で良いのではないでしょうか。
誰だって、問題を抱えている
ママ友のいじめは、子供のいじめに似ています。
特に女の子の場合、ほとんど母親の子供に対する日頃の態度が、そのまま子供のいじめにつながっているように思います。
今までおとなしかった女の子が、学校で、友達に「死ね」と言ったり、叩いたりするようになったとします。その場合、大抵、その子は母親から「死ね」と言われ、叩かれているのです。で、その母親は、同じことを夫からされている。
ママ友グループで、突然、いじめが始まる構造も、このようなパターンが多いように思います。
ママ友グループのリーダー格は、見た目もきれいで華やかで、いつでもグループの中では自信たっぷりで、経済的にも恵まれているように見え、子供もかなり優秀だったり。ご主人は自慢の出来る職業についている。
でも、1対1で話してみると、思いがけない悩みを抱えて、グループではいつも自分のことをバカにしているように見えてたのに、相談を持ちかけられた。
そういう話が、案外少なくありませんよね。
実は、私も、そういう経験があります。
ご主人は誰が聞いてもうらやむような立派な職業で、自分もエリート。子供は優秀で、成績も常にトップクラス。まさに、絵に描いたような裕福な家庭のママで、学校ではいつもたくさんのママ友に囲まれています。私も言葉を交わしたことがあるので、会えば挨拶はしますが、1対1で、じっくり話したことはありません。
そんなある日、学校の行事でたまたま席が隣同士になりました。
「風さんはいつも学校の行事に来られるから、音ちゃんは幸せですね」
そう言われたので、
「ご主人、いつも忙しそうですね。ほとんどこういう場所でお見かけしませんもんね」
私が何気なくそう返すと、
「あと、3年くらいは我慢してあげるけどね」
「えっ?」
「でも、もうそれが我慢の限界。まあ、先の話ですけど、多分、限界なんじゃないかな。もっと早いかも」
そうポツリと仰ったのです。
その瞬間に、彼女の華やかなイメージがガラガラガラ〜ッと崩れ落ちていきました。
しかし、その後、彼女とその件について話したことは一度もありません。現状、どのような状態なのかもわかりません。
こういうこともありました。
学校では、決して誰とも目も合わさず、誰とも口を決して聞こうとはしないお母さんがいました。
必ず、学校行事には来ますが、常に一人。話をするのは自分の子供とだけです。挨拶をしても、ぺこりと頭をさげる程度。感じは決してよくありません。
あるお祭りの日、私たちは家族3人で出かけました。そこに、そのお母さんと子供が一緒に来ていたのです。音はその子と一緒に遊ぶ言って、どこかへ走って行きました。
お母さんもどこかへ行ってしまいました。私たち夫婦で公園のベンチに座っていると、そのお母さんが、缶ビールを3本持って、
「一緒に飲みませんか?」
と、来たのです。
「え?いいんですか?」
「音ちゃんのご両親ですよね。いつも、娘と仲良くしてくれてありがとうございます」
「あ、いえ、こちらこそ」
「本当は学校で、キチンと挨拶しないといけないんですけど、私、ものすごく話しかけるなオーラを出してるから。すみません」
「あ、やっぱり。いつも怖い顔してますもんね」
「わかりますか?やっぱり怖いですか?」
「ちょっと怖いですよ」
「そっか、やっぱ怖いんだ。よかった。音ちゃんのママもわたしと同じ空気を感じるんですけど」
「あ、わかります?」
と、茜さん。
それから、彼女とは2時間くらいずっと話し続けました。とても気さくな人で、気持ち良く笑う人でした。
しかし、その数日後、学校で会った彼女は、いつもの怖い顔に戻っていました。挨拶も例のごとく頭をペコンとさげるだけで、言葉を交せるような雰囲気ではありません。
「え、あの日はなんだったの?」
と、わたしが茜さんに言うと、
「ああいうタイプの女性はブレないからね。気持ち、よく分かる」
と、納得顔。
以来、彼女とも私たち夫婦は一度も口をきいてません。
これも、彼女なりの”嫌われる勇気”なのだと思います。
自分にとって、自分と娘にとって、他のママたちとどのような関係性を築くのか?その答えが彼女の態度です。
そこに、ブレが全くありません。
己を知る
自分の中で、「何事も良好だ」と思えるときには、どんな噂も気にならないものです。嬉しい噂だけでなく、自分にとってあまり嬉しくない噂も耳にしていたはずです。
例えば、
「調子に乗っている」とか。でも、その時は、それほど気にはなりません。
しかし、一旦、自分の中の調子が狂うと、嬉しくない噂ばかりが気にかかるようになります。
そんな時、
そうなってしまっている自分にいち早く気づくことが大事なのです。
そして、その状態を素直に受けとめる。
「こんな自分はダメだダメだ」
なのではなく、
「こういう自分も含めて、これが全部、自分なのだ」
と、受けとめる。自分を認める。
そして、一旦、ストップする。
立ち止まるのです。
そして、捨てましょう。捨てちゃいましょう。
で、傷が癒えるまで、じっとしてましょう。何も考えず。でも、考えてしまったことは受けとめましょう。
傷が癒えたら開き直りましょう。
過去は過去。今は今。
今という現実をしっかり意識して、さあ、行動に移りましょう。
(執筆者:心の冷えとりコーチ 風宏)
風宏の心の冷えとりコーチングはこちらもご覧くださいませ。
風 宏(Kaze Hiroshi)
心の冷えとりコーチ
冷えとり歴13年目。靴下6枚ばき、半身浴20分。最近お酒がやめられるように変化した2015年2月4日より、女性のための問題を解決するブログを開始。2016年9月GCS認定プロフェショナルコーチ資格取得。女性のための心の冷えとりコーチング講座も開催。