こんにちは。
冷えとりコーディネーターの風茜()です! @kazeakane1
いつもたくさんのブログの中より、ご訪問いただきまして誠にありがとうございます。
さて、今回は他人軸で生きていたために、何度も失敗を繰り返した私が、冷えが取れてくるにつれて、心と体も健全になり、ついに転機を迎えたところをお知らせしてきました。
(*前回までのお話は、
4他人軸から自分軸へ 」をご覧くださいませ。)
しかしながら、心のブロックを取るのはなかなか難しいことです。
人は思い込みで生きていることも多く、この思い込みさえ外すことはできれば、いろいろなことが変わるということが、最近私にも、ようやくわかりかけてきました。
そうなるために私はどうしてきたのか?
実は、その思い込みがブロックになっているということすら、最近まで気がつきませんでした。
ただ、冷えとりをして、体を温めた結果、心も体も健全になり、目の前に新しい世界が広がっていたのです・・・。
まず。劇的に環境が変わりました。
付き合う人たち、好きなもの、好きな場所、洋服等・・・。
今回は、私の一番の心のブロックになっていた母とのことについて、検証していきたいと思っております。
どうぞお付き合いくださいませ。
心のブロックになっていた母とのこと
私の育った家庭は、父が稼いだお金の3分の2を酒代として使ってしまうために、小さい頃からお金での争いが絶えない家庭でした。
記憶に残るのは私が小学5年生の時に、朝、父と母がお金をめぐって怒鳴りあいの大げんかをしている現場に遭遇し、当時小学一年だった妹にそれを見せてはいけないと思って、妹を連れて、2階に隠れた古い思い出があります。
小学生の私は親のケンカが本当に怖かったのです。(大人になってからも、声を荒げる男性は本当に怖いです。大人になってわかりましたが、大声をあげて威嚇する人は本当は小心者であるのがバレたくない人です。今は、器が小さい人なのだと思えるようにもなりました)
父は酒を飲んで帰ってくるので、帰りはいつも深夜。
そんな父とは、まともな話し合いができないので、決まって口論になるのは父の出勤前でした。
そして、父の怒鳴り声での捨て台詞があり、玄関に取り残されたかわいそうな母を見て、私たち姉妹は成長してきました。
子供はお母さんが大好きです。
お母さんに悲しい顔をしてもらいたくない。
怒鳴って、暴力を振るう父の方が悪いと自然と思うようになりました。
(父の言い分も聞きもしないのに、勝手に父を悪者にしていました)
大きくなるにつれて、母は私に父の悪口を言うようになり、私の中で父は完全に悪者になりました。(妹には悪口は言わなかったようです)
とにかく、母はお金がないというのが口癖で冬の暖房もお金がかかるからと使用を禁止されたり、極端な節約を強要されていました。(冬は寒さに震えていました)
でも、実際には貯金もできていたし、母方の祖父母からの援助もあったようなので、食べるに困るほどの貧窮ぶりではなかったように思います。
母は、物事のちょっとした悪い面に焦点を当てて、そればかり考えて、不安がる人でした。
そして、その不安を他人に言って、他人を不快な気分にさせ、自分の嫌な気持ちを共有させることを楽しんでいたようにも思えます。
このように怖がりな人は、腎臓が悪い場合が多いと思います。
母もトイレが近く、そのことをとても気にしていました。
外出した時には、水分を摂らない、外食は塩分が強いから喉が乾き、水をたくさん飲み、夜のトイレが近くなるから嫌だといつも言っていました。(そのくせ、自分が料理が下手なのは、美味しいレストランに連れて行ってもらっていないから、味をしらないのだといつも言っていました。本当に行きたいと思えば、一人だって行けますよね?)
私が大人になってから、母は小さい時に腎臓の病気にかかり、それ以来トイレが近くなったということも知りました。
とにかく不安でたまらないので、まだ起こっていないことも心配する有様でした。
例えば、結婚の「け」の字も考えていない子供の私に、
「結婚しても相手が嫌になって離婚したいと思っても、経済力がなければ離婚することはできないから、仕事を持つように」
と、繰り返し言いつづけました。
(将来の私の結婚は離婚という前提のもとにあったのです)
ですから、私の意識の中には、
結婚=離婚するかもしれない=必ず将来そうなるから稼ぎがないといけない
という図が出来上がりました。
感謝しているのは、私に働く意識も植え付けてくれたことでしょうか。
ただ、働く意識を植え付けてもらえたことはありがたかったのですが、会社員という依存型の働き方しか考えることができませんでした。(世の中にはいろいろな働き方があったというのに。そして私は会社員が全く向いていないと気が付きませんでした)
こうして、私の心のブロック、
「会社員でなければ私という存在価値がない」
という意識が育まれていったのだと思います。
主婦で稼ぎがないのは発言力がないという図も出来上がりました。(これは、よく父が「誰が稼いできてやっているんだと思ってるんだ」という発言を聞いていたからかもしれません)
子供を持つということも、とても怖いことでした。
子供は働く私の足かせになる。
子供のことを愛せないかもしれない。(母がそうであったので)
(私もいつの間にか、まだ起こりもしない将来に大きな不安を抱えるようになり、心に思った通りの結果を引き寄せる人生を歩むことになったのだと今ではわかります。)
これも、母が私に繰り返し子供が自分の人生の足かせになっていると言い続けてきたからかもしれません。
「あなたたちがいなければ、離婚できたのに」
「離婚すると片親になり、就職の時に不利だから、あなたたちのために私は我慢している」
「働きたいけれど、あなたたちがいるから働きにいけない」
お気づきだと思いますが、母は本当はやりたくないことにもっともな理由をつけてやらないという人生を選んできた人だったのです。
私はお母さんを喜ばせたい一心で、母の笑顔になるように人生を歩んできました。
四年生大学へ行けといえば、行く。
会社員になれといえば、なる。
でもどれも私の心からの要求に従って、なったわけではなく母を喜ばせるためにやったことなので、他人軸で生きていたのだと思います。
そんな私でも、自分軸でやりたいことが幾つかありました。
それを母はすべて潰してきました。
そして私は自分軸で物事をやろうと思うと母が悲しむことを知り、本当にやりたかったことをやることを諦めるようになりました。
その一つの出来事について。
私はイタリアに留学したかったので、費用をアルバイトで貯めました。
ところが、母は許してくれませんでした。
「外国は危険だから」(これはわかります)
「あなたがいなくなったら、誰が私の愚痴を聞いてくれるのか(父の悪口)」
この理由でした。
これを聞いて私は一刻でも早く母と離れなければならないと決断することになりました。
私の人生は母の愚痴を聞くための人生ではない。
私のやりたいことをやる人生だ。
そう初めて思った瞬間でもありました。
このころの私は、ストレスでお菓子をたくさん食べていて、両親の諍いに心の毒がたまり、顔中、ニキビでいっぱいでした。
そして、鼻が悪く、鼻茸(はなたけ)というポリープが毎年のようにできて、切開手術をしていました。
生理痛もひどく、寝込んだり、鎮痛剤を2時間ごとに飲まないと普通に生活できない状態でもありました。
人生で一番身体と心が冷えていた時代だったと思います。
心を冷やしていた母と離れて
もちろん、一人暮らしは許されませんので、私は家を出る正当な手段として結婚を選びました。
結婚=離婚するかもしれない
という意識を抱えたまま。
ただ、結婚することによって、私は少しづつやりたいことをやれるようにもなっていきました。
これは結婚した夫がやりたいことをやる人だったのもあり、
「そういうことをやってもいいんだ」
という意識に少しづつ変わることができたおかげかもしれません。
(やりたいことを我慢せずにやるということは、他人の顔色を伺う私にとってはとても新鮮に映りました)
行きたかったイタリア留学も、結婚後に行きました。
イタリアは気をつければそんなに危ない国ではありませんでした。
留学はその後の私の人生に大きな彩りを与えてくれたのです。
やってよかった。
ところが、離れても母の魔の手は迫ってきていたのです。
続きはこちらへ。
(執筆者:冷えとりコーディネーター 風茜)
冷えとり豆知識
- 以前、日下由起恵さんのところでカウンセリンを受けたときに、「親よりも高い波動で生まれてくるのが子供」と聞き、自分の子供を見ていて、腑に落ちました。
- 私自身がそうでしたが、子供を持つことが怖いと思う人へ。子供を持つと、もう一度人生を生き直せます。自分も子供と同じ年のころを思い出し、また経験できます。そして、自分の思い出をいい記憶に上書きすることができるのです。